e   p   h   e   m   e   r   a   l

 
 
 
 
 
 

 仔虎を拾った──とそっと幼馴染みに告白すると、噛み殺せ! と未だ幼い牙を剥かれてしまった。
 
 
 
 
 佐助の森は狐の一族の住む森だ。こんもりと小さな丘に住む小動物達の頂点に、佐助の一族は居る。
 とは言え無論、餌に事欠かない、最大の脅威がたかが狐という森に、何の理由も無く大型の肉食獣がやって来ない訳はない。
 佐助には未だはっきりとした理由は判らなかったが、大人達は何か、此の森を維持する為の制約を、取り決めているようだった。何より此の森の狐には、実の親子という概念がない。生まれた子狐は未だ目も開かぬうちに育て親の元へと分配される。佐助はそれが当たり前だと思っていたのだが、最近知ったところによると、それは生き物として相当不自然な行為であるようだ。少なくとも、他の森の狐は、そんなことをしない。
 それを教えてくれたのは烏で、彼等は雛が巣立つ迄の間、番いで面倒を見るらしい。
 
 母親も知らぬなど可哀想に。
 
 そう鳴いた烏にくしゅんと鼻を鳴らして、佐助はその日の迎えを待った。佐助に師匠と呼ばせる育て親は佐助の他に二頭の狐を連れていたが、二頭とも佐助より年長の若狐でもうそれぞれに巣穴を持っていたから、一日転げて遊び、迎えに来た師に甘えて同じ巣穴で眠るのは佐助だけだった。
 けれどその日、師はとうとう姿を現さなかった。何か仕事を持って森の外へ出た師の代わりに、夜になって義兄が迎えに来て佐助は巣穴で独りで眠った。
 そしてそれから一度も師の姿を見ていない。佐助を育ててくれる他の育て親を長が懸命に吟味してくれているらしいが、誰も我がとは言い出さぬようだ。
 そこで初めて、佐助は己の赤みの強い他の者と違う体毛が、敬遠されているのだと知った。血の繋がった父が此の森の者でないことも、母が既に此の世にないことも。
 佐助は初め、義兄の元へと身を寄せようかと考えていた。幸い仔狐なりに佐助は優秀で、野鼠程度ならもう己で獲る事が出来た。餌で迷惑を掛けることはない。ただ此れからやってくる冬を、小さな躯で独りで越える事は難しいのだと、そう聞いていたから未だ見ぬ寒さに備えて身を寄せ合う相手が必要だと思った。
 けれど義兄達は二頭とも、此の森を出るのだと言う。一人前の若狐は、そうして何処か別の場所へと移り住む。
 何処へ行くのかは佐助にはよく判らない。ただ、此の森の秩序を維持する為の、制約の為の決め事なのだろう。せめて春までは残ってやりたいが、と一様に悲しい顔をした義兄達に、我が儘など言えよう筈もない。
 そして佐助は晩秋を迎えた森で、独りで暮らしていた。新しい養い親は見付からない。赤狐など此のまま死ねばいいと、そう思われているわけではないだろうが、冬が来れば佐助はきっと死ぬだろう。その小さな死骸を見て、大人達が何かを感ずる事はなさそうだ。
 
  
 途方に暮れながら、けれど日々の餌を獲らねば小さな躯など冷えを増し始めた季節にあっという間に殺される。
 だから佐助はその日も己でも獲れる獲物を探して、森の外れを歩いていた。森と外側との縁は、意外とはっきりとしている。かさかさと境界を跨ぐ落ち葉を踏みながら、佐助は太陽の熱を毛皮に取り込み、同じように日向ぼっこに出てくる鼠はいないかと鼻をひくつかせた。その鼻腔を、嗅ぎ慣れないにおいが擽った。
 佐助は目を瞬かせ、そのにおいの方へと足を進めてやがて見慣れない姿の獣を見付けた。
 佐助の森に虎はいない。故に見るのは初めてではあったが、それは虎だった。ただし師に聞いていた虎と違って、佐助と同等程度の大きさしかない。
 仔虎だ。
 仔虎は佐助を見、みあ、と小さな牙が、それでもぞろりと剣呑に並ぶ口を開けた。
「腹が減ったでござるう……」
 食べるものかも判らなかったが、取り敢えず落ちていた木の実を集めて食わせ、佐助は己も空腹であることに気が付き森の中へと足を向けた。仔虎は大慌てで木の実を貪り、当然のように細長いしっぽをぴこぴこと揺らしてその太い足でついて来る。驚いた事に、足音がしなかった。
 未だ生まれてそうも経たないように思えるのに、虎というものはどれだけ物騒なものだろうと佐助はぞっとしっぽを太くして、少し素早く駆けてみた。
 仔虎は直ぐに佐助を見失い、みい、にいと仔猫のように鳴いた。
 
 
 
 
 近頃夜はとても寒い。
 佐助は小さく鞠のように丸くなり、それでも暖が取れずにぶるぶると震えた。
 今日は上手く餌を探せなかった。己でも満腹になれるほどの獲物は捕れぬというのに、収穫の大半は仔虎の腹に収まるのだ。このところの佐助は、見窄らしく毛並みも乱れ、痩せ細った哀れな姿をしていた。時折見かねた大人が獲物を分けてくれるが、それもまた、腹が減ったと泣く仔虎の腹に収まるのだ。
 うとうとと、寒さに震えながら目を閉じて、佐助は明日の朝にはもしや死んでいるのだろうかと考えた。死骸を見付けた仔虎は、佐助を食べるだろうか。
 死んで食われるのは当たり前のことだが、森の頂点に立つ狐の一族である佐助には、今まで考えもしなかったことだ。ちらと厭だな、と思う。骨までばりばりと食べられて、たった一日分の腹の足しになるなんて、そんなつまらないことはない。
「佐助」
 ふん、と唐突に首筋の毛が鼻息で逆立った。かと思えば一瞬誰かと思うほどに低く名を呼ばれ、佐助はびくんと跳ね上がって頭を上げた。その視界を塞ぐように、のそりと影が降ってくる。
 恐ろしさにか硬直したままの佐助を余所に、もそり、と寄り添った影は見た目に反して小さかった。佐助と同じか、少し大きい程度だ。
 けれど酷く温かかった。
「寒いのであろう。そういう時にはな、二匹で寄り添うのだ」
 さすれば温かいのだぞ、と自慢げに言う声は、いつもの仔虎のものだ。佐助はそっと安堵の息を吐いた。いそいそと佐助に寄り添った仔虎は、佐助を抱え込むように躯を絡めた。虎の体臭がにおう。仔虎ではあるが、昼に食べた獲物のにおいが染み付いて、少し落ち着かない。
 仔虎の顎と首の間に鼻面を抱え込まれ、佐助はふうと息をした。腹が小さく鳴る。
「腹が減ったのか、佐助。朝まで我慢せよ。此の幸村が、明日は何か、獲ってやるぞ!」
 未だ獲物など一度も獲れたことがない癖に偉そうな事を言って、仔虎は楽しそうに笑った。元気の有り余る、此の森に居る限り天敵のいない仔虎にとって、やがて来る冬も、戯れの延長であるのかもしれない。
 
 今のうちに殺さねば獲って食われるぞ、と
 
 幼馴染みの真白な狐の、昼の言葉を思い出す。痩せ細った佐助を案じ、己の餌を持って来てくれた幼馴染みは、口は悪いが誰よりも優しい。私がもう少し大人であったなら、と、育て親の目を盗んで佐助の艶の悪い毛並みを舐めながら、悔しそうに呟く彼女が、心底案じてくれていることを知っている。
 今は未だ、仔虎は佐助に牙を立てる気はないらしい。
 しかし仔虎を拾ってからさほどの夜を越えた訳でもないのに、仔虎は出会った時よりも大きくなった。間もなく、佐助を獲って食える程の大きさにはなろうし、森の王者としての本能が、無防備に眠る狐に牙を立てる日は来るだろう。
 それまでには別れなければならないし、そもそも此の森に仔虎を置いておく訳にはいかない。森の秩序が壊れて、彼は今まで狐の一族を頂点としていた此の小さな森で、番いもなく、独裁者となってしまう。
 佐助はゆると目を瞬かせた。先程とは違う、心地良い眠りにへにゃりと垂れていた耳をぴくりと揺らす。
「ねえ、旦那」
 囁くと、既に半分寝惚けた声で、仔虎が何だ、と辛うじて判別出来る言葉で問うた。
「明日天気が良かったら、あんたの森を探しに行こう」
 もぞり、と佐助を抱え込んだ短くて太い足が動いた。爪が小さく佐助の背を掻く。
「………此の森を出るのか」
「うん、そう」
「お前、戻れぬかも知れぬぞ」
 おれが戻れぬ程なのだから、と年長のようなことを言う仔虎は、速さこそ今は佐助に敵わぬものの、ずっと長い距離を、休まずに歩くことが出来るだろう。途中で、佐助は付いてゆけずに蹲るのかも知れなかったし、首尾良く仔虎の森へと辿り着いたとて、その後独りで此処まで戻れるかは怪しいものだった。何より、冬が来るのだ。
「うん」
 しかし佐助は、温かな毛皮に鼻面を埋めたまま頷いた。
「良いよ」
 仔虎はふんふん、と鼻を鳴らして佐助の耳の後ろのにおいを嗅いだ。それからそうか、とそれだけ言って、もふと再び頭を落とす。
「ならば、もう眠らねば。明日は早い」
「うん。おやすみ」
「うむ」
 程なくして聞こえてきた寝息が額を湿らせるのに僅かに首を竦め、佐助は目を閉じた。
 明日、一日歩いて仔虎を送り届け、虎の支配する森で大人の虎に囲まれたら、そこで佐助の命は終わるのかもしれなかった。
 冬に殺されるのとどちらがましだろうと考えて、此の小さな虎を独り残して孤独な王にしてしまうより、虎に囲まれて食べられたほうがよっぽとましだとすとんと思う。いくらか自棄になっている気もしたが、しかし卑屈になっているわけではなかったから、師も嘆かずにいてくれるだろう。
 
 
 幼馴染みにだけは挨拶して行きたいな、と考えて、しかし仔虎を彼女に会わせるわけにはいかないか、と思い直し、佐助は胸の裡で綺麗で優しい銀狐に別れを告げた。

 
 
 
 
 
 
 
200801106
初出:20081019

誕生日はだんなのほうがちょっと早いかもですが
さすけのほうがおとなです
でもまあどっちもまだミルクくさい