泥の川も渡る

 
 
 
 
 
 

 佐助、佐助、と呼ぶ声に、はあいと返して木々を渡り陣幕の内へとひらりと降りれば、諸肌を脱いだ肩にきつく晒しを巻いた拭い切れぬ血に汚れたままの主は、転がっていた石に腰を掛けて天を指差した。夜空を仰いだ喉が流れた汗の筋をくっきりと浮かして、額に締めたままの鉢巻きの跡もまた、斑に線になっている。
 歩み寄り、鉢巻きを解いてやりながら差された天を見上げれば、一面降るような星空で、一等輝く北の星に目を細め、佐助は見事だねえ、と呟いた。主はうむ、と笑って頷く。
「今宵は、七夕であったな」
「嗚呼、そうですね。晴れて良かったねえ」
 戦場で何を浮かれた事を、といつもなら言い出しそうなものを、今宵は先に口火を切った主は機嫌良くうむ、と頷いた。
「天の二人も、巡り会えた事だろう」
「そうだねえ。ま、俺様なら、天の川なんかささっと渡っちゃって、年に一度の七夕なんて、相手に待たせやしないけどね」
「それでは罰にならぬ」
「そんなもんで弁えられるくらいなら、端から仕事も忘れて睦み合ったりなんかしねえさ」
「お前は情緒がないな」
「うわ、旦那に言われると結構傷付くなあ」
 はは、と笑えば抜かせ、とどんと胸を叩かれて、佐助は痛いよと態と身を捩らせた。
「……何にせよ、出来ればもっと早くに戦を終わらせて、上田の子供達にも心易く天に願い事をさせたかったな」
「うーん、まあねえ。でも、小さな子なら、戦なんか判んねえでしょうよ。親父が留守だろうが笹飾って、今頃夢の中だよ。奥方達は、自分の旦那の無事を願ったろうしね」
 そうだな、と頷いて、幸村は手拭い濡らして来るよ、と踵を返し掛けた佐助の手首を掴んだ。引かれるままに、佐助は隣へ座り込む。地べたへ直接ではあるが、今日の晴天で、すっかりと乾いて不快感は無い。
「旦那、肩は大丈夫?」
「うむ」
「もう、寝た方が良いと思うけど。どうせ明日も、打って出る気だろ?」
 止めたって聞かねえし、と苦笑すれば、無論だ、と大真面目に頷いて、幸村は佐助を見下ろした。
「佐助。お前は、会いたい者は居るか」
「え?」
「天に願ってでも、会いたい者は」
「はあ。そう言う旦那はいるの?」
 幸村はいや、と頭を振った。
「おれは、出会うべき者には、もう会っている。巡り合わせは、悪くない」
 だがお前は運の巡りが悪そうだ、と言う幸村に、悪気がないのが判るから尚悪い、と顔を顰めて、佐助は肩を竦めた。
「どうせ俺様は、運が無いですよ」
「そうは言ってはおらぬ。お前は、運など味方に付けずとも、己で掴んでゆけるだろう」
「そりゃ、旦那の事でしょうが」
「しかし、人の巡りは如何ともし難い」
 ちょっと人話し聞いてるの、と唇を尖らせて、佐助は天を仰いだ。
「………まあ、俺様も、会いたい人には会えてるから、いいかな」
「そうなのか?」
「人の巡りはどうにもならないもんなんだろ? でも、まあ、離れたくない人とは今のとこ、離れずに済んでるからさ」
 ねえ、と悪戯を企むように目を細めて首を傾げ、顔を仰げば主は一つ瞬いて、それからなんとも言えない微妙な顔をしてみせた。
「それは、お前、」
「そうですよ、主殿。判ってんなら、言わなくっていいよ。恥ずかしいでしょ」
 主が口を開く前に、さて、と立ち上がり、佐助は装束を叩いて土を落とした。
「顔洗って、もう寝て下さいよ」
「佐助、」
「あー、俺は周囲の見張り」
「佐助」
「平気だって、いつものこったろ。忍びはあんた等とは体力の使い方が違うの。隙間見付けて休んでるから、今俺様すっげえ元気」
「そうではない、佐助」
 もう、何なの、と振り向けば、主は目を丸くして一つ瞬いて、それからくつくつと喉を鳴らして笑い、立ち上がると佐助の肩を掴んだ。顔を覗く。
「お前、真っ赤だぞ」
「気のせいじゃないの」
 つんと顎を反らせて言えば、主はまた喉を鳴らして笑い、後頭部へと掌を滑らせた。
 何だ、と思う間もなく引き寄せられて、近付いた唇から覗いた舌に瞼をちろりと舐められる。
「何」
「泥だ」
 ぺ、と泥を吐き出して、幸村はぽんと忍びのこめかみの辺りを叩くように撫でた。
「もう休む。お前も持ち場へ戻るなり、休むなりしろ」
「水は?」
「自分でやる」
 呼び立ててすまなかった、と目を細めてくるりと踵を返し、陣幕の中心へと去って行くその迷いのない足取りに、静かに隔てられた川を見て、佐助は舐められた瞼を擦った。
 呼ばう声が聞こえる限り、隔てる川などひと飛びにしてやる、と口の中で呟いて、佐助は軽く跳躍し、木々を渡って戦場の闇へと駆けた。

 
 
 
 
 
 
 
20070724
初出:20070707