厠を出て座敷へ戻ろうと縁側を歩いていると、風の具合か何処からかつんと刺激のある匂いが流れ、鼻を掠めた。幸村は首を巡らせて庭の向こうを見遣る。庭木に隠れてちらほらとして見えぬが、誰かが井戸端に居るようだ。
底が浅いため飲み炊きするために使う井戸ではないが、女人が此処で水を浴びている等と言うことはまずない。使うとすれば馬にやる水を汲みに来た厩番か、手足の泥を落としている男衆だろう。
そう思い沓脱石の上の草履を突っ掛けて庭を回れば、居たのは幸村の忍びだった。
忍びは逆様にした桶に腰掛け、水を張った盥の上で丁寧に髪を洗っているように見えた。しかし明らかに香るようになった毒とも薬ともつかぬ匂いに、幸村は首を傾げる。よほど落ちにくい汚れを、薬剤で落としているのだろうか。
「佐助」
「はあい、なあにー」
気配には当然気付いていたのだろう。声を掛けると佐助は振り向かぬままに答えた。
「何かご用事なら、他のに申し付けて頂戴よ。俺様、ちょっと手が離せねえの」
「……何をしておるのだ」
近付けば、いよいよ匂いは強くなった。髪を洗っているようだというのに佐助は襤褸に近い一重を上に着たままで、濡れた布地から肌色が透けている。しかしその布地は蜜柑の色に斑に染まり、よくよく見れば普段は日に当たらぬ佐助の指先もまた、薄らと黄みを乗せているようだ。
「おい、着物が濡れているぞ」
「ああ、いいの。どうせもう捨てるやつだから」
「裸になればよかろう。女子でもあるまい」
「そんなことしたら、皮膚が荒れちまう」
唇を尖らせたらしい佐助は、ちらと指の隙間から幸村を見、それから盥の水に指先を潜らせた。
「あんまこっちこないでね」
「何?」
「流すから、お召し物に跳ねたら染みになっちゃうよ」
言って、盥を掴み佐助はざああ、と水を被った。幸村は足下に流れた水に慌てて後退る。佐助はお構いなしに下ろしていれば意外と長い髪をぎゅうと絞った。ぽたぽたと落ちる水の色が、真っ赤だ。
「おい、佐助!」
仰天した声を上げた幸村に、佐助は面倒臭そうになあに、と返しながら腰掛けていた桶を掴み、井戸へと落とした。
「お前、怪我でもしているのか!? 水が真っ赤ではないか!!」
「してねえよ、怪我なんか。今朝会った時はなんでもなかったでしょうが。それから何処にも出てませんよ」
勿論誰かとやり合ってもねえし、転けてもねえよと言って、佐助は汲み上げた水をまた丁寧に下げた頭へと掛けた。器用な指先が、頻りに髪を梳いて流す。絞った水は先程よりは赤みは少なく、どちらかと言えば黄みに近い。
四度そうやって水を被り、佐助は退避させてあった着物と同様に襤褸襤褸の手拭いを掴んで、髪を包み絞った。それからばさばさと拭き、ふう、とさっぱりとした様に顔を上げる。手拭いは黄色く、色が付いている。
「やあ、さっぱりしたあ。気分がいいねえ」
「………何をしておったのだ」
佐助は首を傾げる様にして幸村を見遣り、それから濡れた着物を脱いだ。剥き出しの日に焼けぬ肩が、少しばかり黄色く染まっている。
「髪を染めてたんですよ」
手拭いと着物を放った桶を小脇に抱え、佐助は幸村の側へとやってくると、ちょいと濡れた髪を摘んで見せた。
「綺麗に染まったでしょ?」
「お前、」
ぽかん、とその橙の髪を見、幸村は目を丸くした。
「その頭、自前ではなかったのか!?」
「自前でこんな赤ぇ頭じゃ、天狗か鬼か異人でしょうが。大体、眉毛は黒いだろ」
元は黒ですよ、と流れた染料によってか幾分か茶にも見える眉を指差した佐助に、幸村は訳が判らない、と額を抱えた。
「な、何故染めるのだ!? そんなに目立つ色に染めては、忍び働きに支障を来すであろう!!」
「今まで俺様が、此の頭のせいでお仕事しくじった事なんてありましたかってのよ」
「いや、しかし、自ら目立つ容貌に変えるなど……!」
「いいじゃねえか、ほっといて下さいよ。戦忍でもなきゃ、頭染めたり化粧したりなんて、出来ねえんだからさあ」
命晒して戦場走るんだから、このくらい良いじゃないのよ、と佐助は唇を尖らせる。
「童の様な真似をするな! だ、第一、万が一その頭の所為で役目に支障を来したりなどしたら……!」
「来してねえだろ」
「今までは運良く無事だったとして、下手をすればお前、命を落とすのだぞ!?」
そんな下らない事で、と続ければ、佐助はむっと眉尻を上げた。
「下らないとは、言ってくれるじゃねえのよ。頭染めたり化粧施したり入れ墨入れたり、そういうのはなあ、戦忍の特権なんだって言っただろ? 戦忍ってな、なる為には並々ならぬ苦労が要るし、なればなったで忍びの花形よなんて言われながらも命の価値はべらぼうに安い。給料だって働きが悪けりゃ足軽以下だし、働きが良くっても戦忍飼える家なんか限られて来るから、就職先探すのだって大変なんだぜ。せめて自分の好きな格好くらい選べなきゃ、やってらんねえよ」
「しっ、しかし、だな! もし潜伏中に、敵に見付かりでもしたらどうする!? 逃げた所でその頭では、武田の忍びかと直ぐにばれてしまうではないか!」
「そりゃ、俺様は戦忍ですから」
佐助はしれっと肩を竦めた。
「逃げずとも対処出来る力があるからこそ、戦忍には目立つ事が許されてんの。始末しちゃえば済む事でしょ」
「お前、その様に簡単に言うがな……」
「嗚呼もう、旦那煩い」
「うっ、煩いとは何事だ!!」
「良いだろ、もう。地毛だと思ってたんだろ? 此れからもそう思っといてよ」
「待て、佐助」
踵を返し、ひらひらと肩越しに手を振って立ち去ろうとした佐助の肩を、幸村はがっしと掴んだ。佐助は迷惑そうに顧みる。
「何よ」
「好きな格好、と言っていたな。もしや、お前のあの変わった忍び装束も」
「嗚呼、うん。ま、実用も兼ねてだけどね。結構いいだろ、迷彩って言うんだぜ」
「額当ては」
「生え際がさあ、直ぐに目立っちゃって格好悪いったらないの。額当てしてれば、隠せるしね」
「………戦化粧は……」
佐助は妙に可愛らしく首を傾げた。
「なかなか洒落てるでしょ?」
「……………」
幸村は沈黙し、それから深く息を吐いた。続いてすう、と大きく息を吸うと、佐助はあからさまに「やばい」と顔に書いてくるりと身を翻した。
「馬鹿者ッ!! 男が洒落て如何にするのだ!? 下らぬ事で命を落としでもしたらどうするッ!!」
怒鳴り声にばさばさばさ、と周辺の庭木のみならず屋敷の向こうの庭の鳥までが飛び立ち、盥を抱えた裸足の忍びは獣に混じって身軽に逃げ出す。
「待てッ、佐助!! 話は終わっておらぬわあッ!!」
「良いだろなんで怒るんだよっ!」
割に合わない、と必死の声を残し、佐助は素早く姿を消した。
隠れてしまえば容易くは見付からぬ忍びに、こんな所ばかり忍びらしい、と幸村は憤慨したまま、どすどすと足を踏み鳴らして縁側へと戻った。
20081013
初出:20080928
外伝さすけのまゆげが…黒かったので…
文
虫
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