20080107〜0216まで設置
「真田幸村! 俺様の主人だよ」 関心もなさそうにくあ、と大欠伸をした未だ若い虎の前を食われもせずに歩く狐に其奴は誰だい、と訊けば、視線も向けずにわしわしと耳の後ろを掻いている虎は勿論答えず、意気揚々と狐が言った。 ふうん、と鼻を鳴らして慶次はふっさりとした尾を揺らし、首を傾げる。 「真田の旦那はすっげえ強いんだぜ! 喰われたくなきゃ、退いた退いた」 器用に前足を振ってきゃんきゃんと楽しそうに喚く狐にもう一度首を傾げ、慶次はちらと若虎を見遣る。虎は相変わらず関心なさそうに、ぷんと顔の前を飛ぶ虻に目を取られている。 「俺だって強いんだぜ」 「はは! そりゃその形見りゃあ、判るさ。あんた狼だ」 「あんたなんか、一噛みでイチコロだよ」 「まともにやり合えばね。だけど俺様は狐だぜ。狐は化かす物って、相場が決まってるものでしょ」 「だからって、あんたじゃ俺の相手にはならないさ。ちょっと、あんたの後ろの旦那と、仕合ってみたいんだけど」 「馬鹿だな」 狐は呆れた様に笑った。 「あんたじゃ旦那の相手にゃなんねえよ。あんた、狼は狼でも、一匹狼じゃないか」 「別に負けて出て来たんじゃないさ。群れの面倒見るなんて、性に合わなかっただけだって」 「言い訳なんて、強い者のするこっちゃないね」 しょうがないな、と溜息を吐いて、慶次はとんと地を蹴った。流石に反射良く飛び退いた狐の項を首を逸らして捕らえれば、きゃん、と惨めな悲鳴が上がる。 「どうだよ、参ったか?」 首の後ろを噛み前足で押さえ付けたまま言えば、急所を押さえられた狐は耳を伏せて固まったままだ。きゃんきゃんと喚いて主の助けを呼ぶかと思えば、それすらせずに鋭い目がじっと契機を窺っている。 なんだこいつを押さえても駄目か、と牙を弛め掛けた時、のそり、と大きな気配が動いた。視線を向ければ、先程まで図体ばかりでかい子供の仕種で彼方此方に気を飛ばしていた若虎が、殺気を漲らせて音も無く歩んで来る。長く太い尾が、ゆらりゆらりと不穏に揺れた。 「佐助を離せ、不届き者め。お館様の森で狼藉を働く等、此の幸村、黙ってはおらぬぞ」 「旦那! 駄目だよ、こんなのに構っちゃ」 「へへっ、待ってました!」 喚く狐から牙を退け、慶次は身を起こしてぶるりと毛を逆立てた。 「良いねえ、あんた強そうだ。俺とどっちが強えかな」 「楽しげだが、そなた、判っておるのか。某とて虎の端くれ、はぐれ狼一匹に、どう出来るものでもないぞ。狐一匹押さえた程度で調子に乗ってもらっては、困る」 足下の狐がぱっと飛び出し、ととん、と軽い音を立てて虎の脇へと付いた。耳を伏せたまま、身を低くして鼻の頭に皺を寄せる。 「すまねえ、旦那。油断した」 「ばかもの。ああいう者に迂闊に近付くな」 「申し訳ねえ」 あからさまにしょぼくれた狐に、慶次は楽しくなって笑った。 「仲良き事は美しき哉、ってね。あんた等変な組み合わせだな。てっきり、狐があんたの威風を借ってるもんだと、思ってたんだけどな」 「此れは某の腹心。はぐれ如きに貶される謂われはござらぬ。余所者とは言え殺気も無い者を軽々しく始末する様な、無粋な真似はさせておらぬだけよ」 「はは、そりゃあ命拾いしたってか?」 「余所者は余所者らしく、大人しく出て行って頂こう。聞けぬとあらば、此の幸村、そなたを倒さねばならぬが」 良いか、と問われて否のある筈もない。そもそもそれがしたくて喧嘩を売ったのだ。 慶次は答えの代わりに喉奥で呻りを上げ、それから牙を剥きだし笑って見せた。 「佐助、退いておれ」 「旦那!」 「手を出すな」 怒らせた肩の筋肉が、前足を出す動きにぐるりと盛り上がる。 「おれの獲物だ」 ふいに、ぐうと唇を捲り上げ子猫の様に白い、けれど躯付きの若さからは想像も付かぬ程逞しい牙を覗かせ、真っ赤な歯茎を剥いて虎は咆哮した。びりびりと周囲の葉も揺らす大音響に、ひゃあ、と慶次は態と声を上げて目を瞠り、笑う。 「良いねえ、楽しくなって来た」 「んもう、旦那ってば!」 主の勝利を信じて疑わない、信頼にべったりと甘え呆れた声を上げた狐を余所に、一際身を低くした虎の跳躍に備え、慶次はぐっと後ろ足に力を込めた。 「おっとお……」 よたよた、と斜めに傾いだ躯を立て直し、慶次はがさ、と藪に凭れ掛かった躯を起こして再び歩んだ。傷だらけではあるが酷い怪我はない。ただ心地良い疲労に今直ぐごろりと横になって寝てしまいたくも思ったが、彼方も傷だらけ乍ら勝負を付けると喚いた頭に血の上った若虎と、さっさと出てってよ、とその主を押さえながらしっしと尾を振った狐の為にも、兎に角此の森は出て仕舞わねばならぬだろう。 お館様、と若虎の呼んだ森の主に迷惑を掛けるなら、卑怯であろうが何だろうが、狐の一族総出で抹殺させて貰うと急に熱の冷えた目で告げた狐は、若虎の咎める様な声にも耳を貸さない風だった。彼れでは後でお叱りを受けるだろう。そうまでして、恐らくはそのお館様とやらの怒りから、慶次を救おうとしてくれたのだ。 それに免じて立ち去った様なものなのだから、此処で昼寝と洒落込む訳にも行かない。 「お館様、ねえ……」 此の森の主は大虎だと言う。それを見たくて来たのだが、森の奥に鎮座するのか留守なのか、姿を拝む事は出来なかった。代わりに楽しい喧嘩が出来たのだから不満はないが、今度来た時には大虎も見物したいなと慶次は呑気に思う。 「ちょっと、変な事考えてんじゃないだろうね」 へへ、と一人笑った声を咎められ、きょろと目を上げれば藪からぴょんと狐が跳ねた。赤みの強い体毛は、間違いなく先程の虎の腹心だ。 「どうしたんだい。俺に喰われにでも来たのかい」 「馬鹿、んなわけねえだろ、おっかねえな。そうじゃなくって、此れ」 ぱさ、と咥えていた臭いの強い草を落とし、狐は鼻面で押し出した。 「傷に効くからさ。そのままほっといて膿んだりしたら、命に拘わるよ。あんたはぐれなんだろ。群れが世話なんか、してくれないってんなら、尚更さ」 「へえ、優しいねえ」 「俺のせいみたいなもんだしね。それに旦那が、今度会った時には絶対に決着を、て煩いんだよ。死なれちゃ決着も何も、て話だろ」 「ふうん……あんた、旦那旦那、なんだな」 「そりゃあね。俺様の主ですから」 森を抜けて西に下れば水場があるよ、と鼻先を振って示し、狐はついと身を返した。 「じゃあね、もう来ないでよね」 「あいつともう一度喧嘩させたくて、助けてくれたんじゃないのかい」 「そんな訳ないっしょ。でも、再戦の機会がないのと、死なれた所為で勝負が付かないのとじゃ、全く意味が違うよ」 「俺はまた来るかもよ?」 「来ないでって言ってるでしょ! 大体、次の時には旦那はもっとでっかく強くなってるに決まってるんだ。今だって日に日にめきめき牙が伸びてるのに、一匹狼なんか、一噛みでイチコロだよ」 先程の慶次の真似をして、狐はへへ、と笑うと現れた時と同じ様に、ぴょんと跳ねて姿を消した。 慶次は暫しぱさ、ぱさと尾を振って気配を送り、それから薬草をくんと嗅いで顔を顰め、臭いからして苦い其れを鼻の頭に皺を寄せながら食んだ。 |
虎の威を借る狐
けいじストーリー上田城イメージ。