「佐助! 肩のとこが抉れてるぞ」
行水をしている最中に使用人の住まいの辺りまで単独でやって来た大介に、一頻り小言を言って濡れた身体を拭っていると、物珍しそうに傷だらけの躯を見ていた子供は丸い目を更にまん丸くした。
「ああ、これね。旦那にやられた傷だよ」
「父上に?」
聞きようによっては悲鳴じみた頓狂な声を上げた子供に、そう、と頷いて、佐助は無遠慮に伸ばされた手を避けず、触れさせ薄く笑った。
「まあ、別に戦でって言うんじゃないよ。俺は真田の旦那以外に仕えたことはないからね」
「じ、じゃあ、折檻か?」
「そう言う事をするお人ですか? 違うよ。手合わせしてた時に、ちょっと目算を間違えてさ。槍で抉らせちゃったんだよね」
こんくらいの、と指で結構な塊を示して見せて、佐助は首を竦める。
「肉の塊ごと弾かれてさ、沢山血が出たの。旦那ってば、真っ赤になったり真っ青になったりしてすんごい謝ってくれてさあ。俺がへましただけなのにねえ」
あんたの父上はそう言うお人なんだよ、と言えば、大介は肉の回復しきらなかった、少しへこんだ傷を撫でて、それからうむ、と頷いた。
「佐助は、凄く強い戦忍だったと聞いた」
「そうですね、長を勤めさせてもらってたくらいにはね」
「また今度、戦があるのだ」
そうですね、知ってますよと頷けば、大介は目を上げ、父親似の真っ直ぐな目で佐助を見詰めた。
「佐助は、戦には行かぬのか?」
「ええ?」
「武田の天下はもう揺るぎないとは言え、此度の戦は厳しいものになろうと父上は仰せだ。けれど此の戦を治めねば、太平の世は訪れぬのだと」
「そうだね、あの徳川が相手だしなあ。本多忠勝の戦国最強は、未だ色褪せてないもんね」
伊達が絡んでるって話もあるしね、と頷けば、大介は幼いながらに聡明な頭で何を察するのか、表情を曇らせてうむ、と頷いた。
「だからな、佐助!」
「はいはい」
肩を掴む手をやんわりと外し、腰溜めにしていた着物に袖を通しながら首を傾げると、大介は真剣そのものと言った様子で拳を握った。
「佐助が、父上について居れば百人力ではないか! 大介の父を、真田源二郎幸村を、守ってはもらえぬか」
「別に、俺なんか居なくても真田の旦那は強いよ。真田隊だってあんなに優秀なんだし、そうそう敵を近付けはしないって」
「父上が強いのは判っておる! 真田隊の力も知って居る! だが、其処に佐助が加われば、正に無敵ではないのか?」
あー、と呻き、佐助はがりがりと頭を掻いた。
「何、誰かから何か聞いた?」
途端ばつの悪そうな顔をして、大介は首を竦める。
「その……昔、佐助が父上と戦場に出て居た頃は、真田隊に勝てるもの等何も無かったと」
「立ち聞きでもしたんだ」
「き、聞こえたのだ! 直ぐ立ち去ったのだぞ! その、行儀が悪い事だとは、判っているし」
小さく苦笑して、別に怒ってないよと栗色の頭を撫でて、佐助は縁側に片胡座を掻いた膝を撫でた。
「でもねえ、悪いんだけど、俺にはもう無理なんだよ」
「無理とはなんだ。佐助は強いではないか! 某は未だ一度も、佐助に勝ったことがないぞ」
「そりゃ、手合わせじゃあね。でもあんたがちゃんとした槍を持って俺を殺す気で掛かって来たら、きっと勝てねえよ」
「そんなことはない。某はまだ、初陣も果たせぬ未熟者だ」
「いやいや、そんなことはあるんですよ。俺はそんなに長く飛んだり跳ねたり出来ねえからさ」
戦場を駆けるなんて以ての外だよ、と佐助はもう一度、今度は意図を込めて膝を撫でて見せた。ちらりと大介が片眉を顰めて、怪訝な顔をする。
「佐助……? 膝が、どうか」
「うん。昔ね、大怪我して、膝の皿が粉々になっちゃったんだよね。その時に腱も痛めて、まあ歩くにはね、負担掛けないようにしてるし普通に見えるけど、走るとなるとさ、直ぐに駄目になっちゃうんだよね。足から力が抜けて、立ってらんなくなっちまう」
だからもう、戦忍は無理なんだよと笑って言えば、大介は僅かに絶句して、それから勢いよく頭を下げた。
「すまぬ、佐助!」
「うわ、やめてよ、大介様に頭下げさせたなんて知られたら、俺怒られちゃうよ」
「しかし、知らなかったとは言え、酷い事を言った!」
「酷くないですよ。嬉しかったよ」
はいはい顔上げて、と肩を掴んでくきりと腰で直角に曲げていた躯を起こし、佐助は半泣きの子供の頬をぺちぺちと叩いた。
「俺様に、戦場に立てなんて言ってくれるお人は、もう誰も居ないからね」
「だ、だって、其れは」
「うん、言われた所で無理なんだけど、でも嬉しいと思う事は理屈じゃないだろ?」
う、と言葉に詰まるように涙目でぐっと堪えて、大介は大きく鼻を啜った。
「ほらほら、泣くんじゃないよ、男だろ」
「し、知らぬ! 泣いておらぬ!」
はいはい、と言って手拭いで顔を拭ってやれば、一つむくれてけれど文句は言わずに、大介は思案げに僅かに目を伏せた。
「大介様? どうしたの」
「では、佐助は、某の初陣にも来れぬのだな」
佐助は無言で一つ瞬いた。大介は悔しそうに、降ろした拳で袴を握った。
「某の初の戦を、お前に見て居て欲しかったのに」
「………何処に居ても、ちゃんと、見てますよ」
「其れでは嫌なのだ!」
「そう言われてもねえ……」
「判っておる、我が儘だ! 困らせたくは無いのだ!」
だが悔しい、と歯軋りするように呻いて、大介は勢いよく鼻を啜った。きっと上げられた目が佐助を射抜く。
「佐助! 後で手合わせをしてくれ!」
「ああ、はいはい、後でね」
「約束だぞ!」
「判ってますよ。俺様があんたとの約束を破った事があった?」
「しょっちゅうではないか!」
唇を尖らせて、大介はくるりと踵を返すと、きっとだからな! と叫んで駆け去った。そろそろ手習いの時間だ。先生が時間に厳しくて、遅れると物差しでぴしゃりとやられるのだと、痛そうに首を竦めていたのを思い出し、佐助は少し笑った。僅かに背を弛めて、猫背になる。
「旦那」
其のままの姿勢で呼べば、暫しを置いてつと、慣れた気配が現れた。全く、と佐助は溜息を吐く。
「親子揃って何だろうね、あんたらは。あんまり下々のとこにほいほい来るんじゃ、示しがつかねえよ」
「其れほど偉いものではない。気取るだけ無駄だ」
大股でやって来た幸村は、勝手にどかりと佐助の隣へと座った。
「彼れは、お前によく懐いて居るな」
「まあね。旦那のちっこい頃にそっくりだよ」
「そうか?」
「旦那より、頭がいいけどね」
「母に似たのだ」
そうだねと笑うと、笑うなと僅かにむくれて幸村は佐助を小突いた。佐助は片胡座に頬杖を突き、笑ったままはいはいと頷く。
「戦だって?」
「うむ」
「そろそろじゃない? お館様は」
「今、京を離れる訳にはゆかぬ。おれが総大将を任されて居る」
「そっか。頑張んなきゃな」
「うむ」
「旦那のことだから滅多な事はないとは思うけど、怪我しないでよ。大介様に、太平の世を見せてやるんだろ」
うむ、と頷いて、幸村は沈黙した。腕を組む。
「……彼れは、戦に出たいのだろうか」
「あんたのお役に立ちたいんですよ」
「しかし、彼れが戦に往く事はあるまい。もう直、戦の世は終わる」
「うん、でしょうね。だからほんとは、手合わせなんかより、政の勉強してもらいたいんだけどね。虎の仔は虎なんだよねえ」
しようがないねと目を細めて見せれば、幸村が顔を向けた。昔から変わらない、真っ直ぐな目が見詰める。
「すまぬな」
「はい?」
「お前に、子守をさせるつもりは無かったのだが」
「別に、そんな風には思って無いよ。お役御免で放逐されて当然なのに居させてもらってんだし、出来ることなら何でもするさ」
「一生分の働きは済ませたろう。おれの側に居るだけで良いのだ」
「あはは、なんつうか、俺様って働き者なんですよ。仕事も何にもしてないって、手持ち無沙汰でいけないよ」
だから良いんですよと言って、佐助はふと笑みを納め、其れから背筋を正した。胡座を解く。
「旦那。其の内、言わなきゃと思ってたんだけど、そろそろ頃合いかと思うんで」
「うん?」
「長い間お側に仕えさせて頂きましたけど、そろそろお暇、頂きたく」
ゆっくりと、睫の長い涼やかな目が瞬くのが、見えた。
「………何故だ。太平の世に忍びは必要無い等と、」
「違うよ、そう言う理由じゃない。そんな事なら、飛べなくなった時に、喩えあんたが泣いて縋ったとしても姿を消してるよ。そうじゃなくって、」
大介様ですよ、と言えば、ちらりと眉を顰めて無言のままに幸村は言葉を促した。
「昔、あんたが甲斐の赤鬼と恐れられていた頃を憶えてますか」
「今も、そう呼ばれて居るが」
「はは、そうだね。でも今はちゃんと父親してるでしょ。そうじゃなくって、彼の頃の旦那は、本当に戦う為だけの鬼だったみたいに俺には見えててさ、まるで人間の様じゃなかったよ」
「酷い言われ様だが、しかし其れは、褒めているのだろうな?」
「まあ、其れが武田の力になった事は確かでしょうよ。だけどあんたにとって良かったのかどうかってのは、また全然別の話だろ」
生き延びて、伴侶を持ち子を成し家を盛り立てて居られる今だからこそ思い出話に出来るが、彼の頃、鬼のままに、命を落として居てもまるで不思議は無かったのだ。
「自意識過剰で、大変不遜なことだってのは自覚してますよ。だから話半分で聞いて欲しいんだけど、あんたをね、そう言うものにしたのは、俺なんじゃないかって、ずっと思ってたんだよ」
「何?」
「小さな弁丸様の側に居たのが俺でなければ、あんたはああ言うものにはならずに済んだんじゃないかって思ってたんだよ」
一振りの刃、ただ駆けて敵を討つことしか知らない赤獅子を、必死で追い掛け幾度窮地から引き戻したか知れない。足も、そうして負った傷で駄目にした。
けれど佐助に後悔は無かった。真実、戦場をひた走るしか能が無いのは佐助の方だ。その生き場所を、死に場所を失ったことを、悔やんだことは無い。何故なら戦場に共に立つ事が叶わなくなった其の時から、幸村は無闇に駆ける事をしなくなったからだ。
皮肉にも、身を守る影を失った事で、幸村は無事に今日の此の日まで生き延びた。
「………大介様をね、そう言う、人でないものに、したくないんだよ」
「佐助、おれは」
「旦那がどう思おうが関係ないの。所詮俺は草如き者なんだよ。普通の生き方って言うのを知らないし、多分、当たり前の気持ちの在り方も、教えてやることは出来ないんだよ。俺はそれで不便ないけど、でも、忍びでも無いお子に、其れは毒に違いないよ」
真っ直ぐな目には動揺も曇りもない。ただ眉間に寄った深い皺が、承服しかねると言って居る。
其の難しい顔に笑って、まあ別に今生の別れってんじゃないし、と佐助はぽんと幸村の背を叩いた。
「里の方からね、忍び宿を任されてくれないかと話が来てるの。あんたんちの領地の辺りの宿だし、時々遊びに来るからさ。俺様だって、旦那に会えなくなったらつまんないよ」
「………佐助は、働き者だな」
「でしょー? 全く、損な性分だよねえ」
戯けて笑って見せれば少しばかりつられた様に頬を崩して、幸村は僅かに視線を落とした。つと、手が持ち上がり、肩に触れる。
「死ぬ様な思いばかりさせた」
「そうですね。どんだけ寿命が縮んだか知れないよ」
「馬鹿を言うな。未だ未だ生きろ」
「判ってるよ、もう戦う事なんかねえもん。そうそう死なねえって。俺様丈夫だしね」
そうだな、と呟いて、肩に置いていた手に、僅かに力が籠もった。かと思えば腕の中に引き寄せられて、佐助は薄く笑って目を伏せる。
「全く、立派に父親の顔してたかと思えば、此れだ」
「何故お前の前でまで、父の顔をしなくてはならぬのだ」
「お子が生まれたら、どんな時だって父親でしょうに。父である前に領主、領主である前に武士。だけど、武士の前に真田幸村だなんて、そんなのはもう、我が儘でしかないんだよ」
「お前は当たり前の事しか言わない」
「悪いねえ。性分なんだよ」
宥める様に背を撫でて、佐助はそっと胸を押し遣った。
「じゃあ、近い内に、城を出て行くよ」
「行き先をきちんと残して行け。誰か共を付けよう」
「お馬鹿さん。戦の前で手なんか幾らあったって足りないだろ。いいよ、一人で行けるって。餓鬼じゃねえんだし」
「しかしお前、足が」
「歩く分には平気ですよ。其れに、そんなに遠くじゃないって言っただろ。ゆるゆる行っても五日も掛かりゃしねえよ」
そうか、と何処か物足りなさそうな響きで言って、幸村は軽く顎を引いた。何処となく不満げな、拗ねた様な顔で佐助を見る。
「しかし、今夜くらいは酒に付き合えるのだろうな? まさか、今日明日に出て行くと言うのではあるまい」
「はいはい、そんな不義理はしませんて。きちんと方々に挨拶済ませて、其れから行きますよ」
そうか、と卒がないのが不満なのか笑みもなく相槌を打ち、未だ腕に触れて居た手が離れ難そうに掴んだ。
ちらりと苦笑して、周囲に何の気配も無いのを確認し、佐助はふと身を寄せて其の肩へと額を付ける。大きな手が背に回されて強く抱き竦められ、軽く息が詰まった。
「……今宵は、幸村でも構わぬか」
微かに視線を泳がせて、佐助は其の動揺に、顔を顰めた。態とらしく溜息を吐く。
「はいはい。でももう、此れっきりにして下さいよ」
「判っておる」
お前はもう、側に居なくなるのだし、と囁いた声は憎たらしくなる程平坦で、佐助は自らが言い出した事ながら、ふいに憎々しくなって着物越しに幸村の脇腹を強く抓った。
憤慨の声を聞きながら、幸村が何者でも無く幸村であると言うのなら、今宵ばかりは自らも、何者でも無い草で在りたいと小さく笑って目を閉じた。
20070218
影の形に随うが如し
文
虫
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