仕方が無かったのだ、と口の中で言い訳を繰り返し、女は雨の中、泥を跳ね上げながら足早に橋へと向かっていた。
夫の訃報を持って来たのは、共に戦へと出ていた夫の友人であった。此度の戦はそう大きなものでは無いと聞いていたとは言え、其れでも誰も死なないというわけにはいかない。
其の少数の死者の中に夫がいたのだと、報奨金を手に戻った夫や息子に喜色を隠さぬ女房達の中、女は乳呑み児を抱えて一人呆然とした。女は躯が強くなく、ましてや子供を抱えて、働きに出る等以ての外であった。
夫の死に支払われた弔慰金は、当の夫の残した借金に消えた。其の借金もまた、先だって亡くなった女の父の薬代であったのだから、恨むとなれば天を恨む他無い。
女は、人付き合いも達者な方ではなかった。それでも近所の女房達が幾らかは面倒を見てはくれたが、皆裕福なわけではない。それだけで、生きて行けるものでもなく、店賃が払えねば、差配は店子を追い出すしかない。店賃の滞る店子を許せば、差配こそが仕事を失う。
女一人であるのなら、何とでもなるだろう。しかし子が居ては、もろとも飢えて死ぬしか、ない。
だから、仕方が無かったのだ、と誰にともなく早口で弁解しながら、けれど死なすつもりはないのだと、誰か、裕福な誰かに拾って貰えれば、あの子は可愛い顔立ちをしているから、家中の銭を掻き集めて買った真新しいおくるみに包んででんでん太鼓を添えて、風の当たらぬ彼の場所にそっと置いて来たのだから───けれどこんなに俄に空がかき曇り、酷い雨になるなんて、と涙目になりながら、女は駆けた。幾度か蹴躓いて転んだが、膝の痛みなど構ってはおれない。
橋が見えた。
増水する川に目を剥いて、はあはあと荒い息の洩れる口をぐっと食い締めて、女は濡れた草の滑る土手を滑り降りた。案の定転げて草で脹ら脛と掌を切ったが、構わず立ち上がり、直ぐそこまで濁流の巻いている河原を走る。
橋の下の、暗がりに。
誰かが、居た。
すんなりとした、男の様な影は、ふっと女の方へ顔を向けた。ちらりと見えた髪が赤い。きらりと光った目が、枯れ切らない紅葉の様だ。
異人か───物の怪か。
其の手に、覚えのあるおくるみが抱かれて居るのを見て、女はぞっと総毛立った。
恐ろしい、等、考える余地もなかった。
女はがむしゃらに叫びを上げて、つんのめる様に猛然と駆けた。鬼気迫る女に驚いたのか、天狗はおくるみを高く抱えたままひらりと女を避けて、濁流の端に立った。今にも、手の中の我が子は濁流の中へと放り込まれそうな風であった。
止めて、と金切り声で叫んで突進すると、ひらりと避けるかと思われた天狗は、其のまま女を抱き留めた。
雨に僅かに湿った着物に包まれた躯は硬く細く、若木の様な手応えで、ふと足が浮いたと思えば、橋の根本、今は未だ水の来ない場所にふんわりと下ろされていた。
座ろうと思ったわけでもないのに尻の下に河原の石を感じて、女は幾度も瞬いた。何の術を使われたのかと天狗を見上げる。
天狗は、明るい色の目で少しばかり苦笑して、女の腕の中へとおくるみを抱かせた。振り回されていた筈の我が子はすやすやと、安らかな寝息を立てている。
天狗は何も言わず、声も出さずにでんでん太鼓をおくるみに挟み、まやかしの様な動きで手に取った番傘を、女の脇に置いた。
「───あ、」
ひとつ瞬く間に、天狗は姿を消していた。す、と落ちた黒い羽根が、女の濡れて血の滲んだ手に張り付く。
おくるみを見れば、太鼓の他に、小さな水飴の壺と、組み紐に通された穴空き銭が一本挟まれていて、女はもう一度顔を上げ、開きっぱなしだった口を閉じ、なかなか湧かない唾を無理に飲み込んだ。
こう言うのは柄じゃ無いんだけどねえと呟いて、佐助はのろのろと橋の下から出て来た番傘が、滑りながらもなんとか土手を這いずり、町の方へと戻って行くのを枝の上から眺めて居た。
あからさまに捨てられていた赤ん坊を見つけたから、では里にでも送ろうか、とそう考えて抱き上げ、戻って来るかも知れない親の為に、ささやかなりとも代金を置いて去ろうとした、其処に現れた母親だ。
鬼の様に髪を乱し奇声を上げて掴み掛かる様に、其れ程大切なら何故捨てるのだ、等とは佐助は思わない。人には事情があるものだし、それは情でどうなるものでもない。だが、そんな現実を差し引いても、情と言うものは残る事がある。
その残った情が、女を雨の中、町から此処まで走らせたのだろう。
胸を病んででもいる様な白い膚の、痩せ細ったあの女に赤子を育てて行けるかと言えば、其れは無理だろうと思う。不作の年の農村でもあるまいし、頼る所も無いからこその捨て子であったろうし、ならば此の先、取り戻した我が子を何処にもやれないというのなら、母子もろとも死ぬかもしれない。渡した端金では、何をするにも足りないだろう。
だが、それでも、あの赤ん坊が母の手に戻った事には違いない。今夜ばかりは、温かな腕に守られて眠るだろう。
命拾いだぜ、と遠離って行く傘の下の赤子に呟いて、佐助は薄く目を細めて笑った。肺病み女の子だ、躯が強いとも言えないかもしれない。そうなれば恐らく、里では長くは生きられまい。
修行に耐え切らない子供は、半分が死に、半分が売られ、もう少し育ってしまった者は、生涯里に縛られて、里の為に生きる様仕込まれる。忍びにもなれず、人里に戻る事も出来ない、彼らはいつでも少しばかり卑屈な目で、忍びである佐助を見た。
そんなものに、もしかするとなっていたかも知れない事を考えれば、母と暮らして死ぬ方が、よっぽどましな様にも思えた。
番傘がすっかりと雨に煙る中見えなくなってしまうまで見送って、佐助はひらりと身を躍らせて、林の中を跳んだ。傘を女に渡してしまったから、てくてくと街道を行く気が無くなった。そもそも、街道を行こうと思ったのは、途中にある茶屋の団子を買おうと思ったからだ。だが、こんな濡れ鼠で買って帰った所で、辿り着く頃には到底食えたものでは無いだろう。
雨宿りもせず茶屋が閉まる前にと急いだのだが、仕方がない、土産はまた今度だな、と考えて、ふと、此れもまた情だと佐助は口元へと笑みを浮かべた。
捨てられ掛けた子を拾い損ねた話等、主にする事は無いだろう。今度の土産話は上杉の情勢と、月中頃には顔を見せろとの信玄からの命だけだ。
何よりも喜ぶだろう其の言葉を拾ってこれただけでも、ふと思い立って甲斐まで足を伸ばして良かったと、雨雲がお主を追いそうだから持って行けと貸して貰った傘を失くしてしまった言い訳を考えながら、佐助は木々の合間を獣の様に跳んだ。
20070314
分類:しのび の話
文
虫
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