甘   酒   し   ん   じ   ょ

 
 
 
 
 
 

 背中に当たる背骨の感触がぐりぐりとして、痩せた野良犬の様だ。しなやかで華奢で、同く細いと称されるだろう己のものとも、少々違う。
 けれど女の背と言うよりは、此れは忍びの背と呼ぶべきだろうと佐助は思った。
 骨を覆う女の厚い肉はない代わり、無駄のない筋肉が独特の付き方をして居る。羽根の様な大きな肩胛骨とそれを繋ぐ丈夫な腱は飛び苦無を放るに充分で、高い位置に据えられる腰は筋肉の塊だ。
 此奴形は良いけど尻もおっぱいも硬そうだそうだなあと考えて、そのまま口に出し掛けた言葉を佐助はなんとか音にせずに済んだ。言えば間違いなく殺される。
 ふらふらと酔いに箍の緩んだ頭を揺らして、己の吐く息へと多量に混じる酒精にまた、とろんと瞼が緩んだ。酔いが循環している。忍びに酔う程呑ませろ等と、新手の拷問か、と佐助は今此処には居ない主に憎々しく毒突いた。
 ゆらゆらと胡座を掻いたまま躯を揺らしていると、振り向かぬままついと伸びた手が、肘を掴んだ。軽く前屈みになった背に、再び寄り掛かる。
「酔ったな」
「……酔いました、よお」
 からん、と底に少しばかり酒を残した徳利を転がすと、畳に垂れる前に細くて白い手が素早く拾った。霞む目で見れば、幾つもの徳利が自分達を中心に幾つも林立していて、妙な景色になっている。
 ばかー、と天井を仰いで声に出して言えば、思ったよりも大声が出た。
「それは、お前の主に言え」
「言うよ、帰ったら、一番に言うって。ばか。旦那のばあか」
「まったくだ」
「大将のばか」
「そうだな」
「軍神のば」
「殺されたいのか!」
 言い終える前に怒鳴られて、佐助はげらげらと笑った。何が可笑しい、と再び怒鳴った女忍びは、まったく、酔っぱらい、と毒突いて、怒気を纏わせたままそれでも黙って寄り掛からせてくれている。佐助は足を伸ばし、遠慮無く体重を掛けてだらりと弛緩した。
「幾ら酔ったからと言って、其れ程気を抜く奴があるか」
「気が抜けない程度じゃ、駄目なんでしょお。俺様、ちゃんと、主様方の言い付け守る、いい忍びですからねえ」
 無礼講だ、お前も酔え、と言った主が、何を吹き込まれたものかは判らない。だが、背後で笑っていた同盟を果たしたばかりの龍虎の、佐助の困惑を面白がる顔が、物語っていた様にも思う。
 だから、何言ってんの旦那、と嗜めて、重鎮方の警護があるでしょう、ねえ大将、と試しに振れば、いやいや上杉の忍びとて大層なものだ、こんな時くらい羽目を外せ、と悪戯小僧の目で暗に諦めろと告げられて、いやでも、と救いを求めて軍神の脇に控えた女忍びを見れば、視線を追った主がおおそうだ、とぽんと手を打った。
「かすが殿。此れの相手をしてやっては下さらぬか」
 うわ、と言う間もなく、当然女忍びは目を剥いた。しかし宥める間も、怒鳴る間もなくそうですね、と頷いたのは軍神で、そうしておあげなさい、此処は上杉が地、もてなすのは此方の役目と美しい主に微笑まれては、つるぎと呼ばれる忍びに否と答える術はない。
 そんなこんなで、酔え、絶対に酔えと酔えるわけねえと毒突く佐助の内心などお構いなしに満面で笑った主は、今頃底なしの二人に良い様に潰されて、疾っくに用意された寝床の中だろう。
 彼れは一体何なんだ、たまには気を張らずゆっくり酒でも呑めと言うなら判るのに、彼の主の思惑は其処を遙かにすっ飛ばして佐助には付いていけない辺りにあるらしい。
 大丈夫かね、誰かちゃんと警護してんだろうか、と酔った頭を巡らせていると、溜息が聞こえた。
「未だ気が抜け無いか。もっと呑まねばならないのか?」
 口に出ていたらしい。
「……もう充分ですう。血の代わりに酒が回ってる、みたいで、気持ち悪い。暑いし。自分が臭い」
 耐えらんねえ、と呻けば、そうだな、と頷かれた。
「酒の臭いで鼻が利かない。私も落ち着かない」
「悪いねえ、うちの馬鹿主が」
「………謙信様のご命令だ。真田の命じゃない」
 そんなものは聞いてやる義理もない、ときっぱりと言った忍びは一滴の酒も呑んでいない。軍神の言葉の裏には己が忍びを労ろうと言う気配もあったのに、それに気付かない訳もないだろう忍びは頑なに、ただ佐助の相手をするだけだ。
 此のくのいちを、軍神は過たず忍びとして使う。恐らくそれは此の女がそう望むからで、忍びの技を唯一のよすがとするくのいちに、唯の側女としてあれと告げても苦しむだけだと言う事を、よくよく知っての事だろう。忍びである事を取り上げては、此の女の中にある背骨が折れて、最早立ってはいられまい。
 しかし此れが真から忍びであるのかと言えば、それはまた違うだろうと佐助は思う。
 忍びでなくば軍神の元へ居る事が出来ぬのに、此の女の本質は忍びに向かない。軍神に救われたと言いながら、向かぬ忍びに縛り付けているのはその軍神を思う心だ。自ら手を血に染めて、闇にも隠しきれない光を纏い、悲愴に美しく舞う姿は剣の呼び名に相応しい。
 酔いに熱の上がった佐助の体温を移す背中は、それでも少しばかり冷ややかだ。しかし忍びの躯は氷の様なわけでは無く、掏摸の紛い事をしたとしても懐に潜る指の温さに相手は気付かぬ程だ。
 熱くも冷たくも無い、微温湯の様な体温はけれどほとんど不変で、夏なら少しばかり冷ややかに、冬ならぼんやりと温かい。汗も流れる程に掻く事はなく、それは汗が出ぬのではなく、汗を出さぬ方法が、叩き込まれているという事だ。体温もまた然り、幼い頃から作り上げて来た忍びの躯の他に、体温を余り変えぬ過ごし方が、染み付いている。
 激高せず、絶望せず、悲しまず、ただ平坦に。
 しかし戦となればその限りではない。
 戦忍びは激しい。技も、気性もどちらもだ。間諜は激しくては成せぬが、戦は激しくなくば成せぬ。
 無論任務を遂行する、その一点を忘れる様では忍びではない。しかし主を惜しみ、己を惜しまぬ激しさがなければ、戦忍びではない。
 そう言う意味では此のくのいちは優秀な戦忍びだ、と佐助は思う。ただその輝く魂の色が、己を殺すに至らない。
「忍びなんか止めちゃえば、良いのに」
「なんだ、酔っぱらい」
 怒るかと思えば、女忍びは存外穏やかに、笑みすら含んだ声で返した。
「眠いのなら、寝ても良いんだぞ」
「悲しくなるじゃない」
「寝惚けているのか?」
「お前、軍神なんか」
 溜息が聞こえた。
「お前に、彼のお方の事など、計れる訳が無いだろう」
 知った口を利くな、と僅かに尖った声に、佐助は黙った。
「軍神さんだって、男だよお、かすが」
「だから、何だ」
「だいてもらえば」
 ふっと寄り掛かっていた背中が消えて、どて、と無様に板間に倒れれば、無表情の美しい貌が見下ろした。綺麗だなあ、と朴訥と思い、佐助はぼんやりそれを見上げる。
「私は剣だ。彼の方にとっての女ではない」
「………そうなの」
 そうだろう、何を馬鹿を言っている、と頭の何処かで考えながら、佐助はそれでも悲しいなあと少しばかり軍神へ同情した。欲も何もないただ美しいばかりの愛し方とその見てくれに騙されて、此の女は何も判ってはいない。軍神の、うつくしいつるぎ、と呼ぶ声の意味を、何も判ってはいない。
 そしてきっと、判った時には、此の女はもう生きてはいられない。
 忍びに向かぬ癖に、忍びでなくては生きていけぬなど、そんなのはもう、死んでいる様なものだ。
「かすが」
「……なんだ」
「だいてあげようか」
「死ね」
 遠慮も何もなく腹を蹴られて、中身が出る、と佐助はごろと板間を転がり身を庇い、それからけたけたと笑った。
「冗談だよお、かすがちゃんってば、本気にしちゃって」
「馬鹿を言っていないで、寝ろ!」
 不満げに呻けば、くのいちは三度溜息を吐いて隣に腰を下ろした。佐助はずりずりと起き上がり、その背に再び寄り掛かる。女は文句を言わなかった。普段酒の毒に酔う事など無い忍びの、酩酊への恐怖を察して甘やかしているのかも知れなかった。
 酔うのは、怖い。酔えば跳べず駆けれず、敵があれば直ぐにでも仕留められてしまう。忍びは臆病な生き物だ。任務の為には命とて苦無の一本と同じだが、死ぬ必要が無いのなら、どれだけでも身も命も、惜しむ。惜しまねば、いざ必要となったとき、上手く使えぬ事にもなる。
「佐助」
 今日初めて名を呼ばれたな、と考えながら、佐助はうん、とこくりと首を倒した。
「寝ていいぞ。私が不寝番をしてやる」
 此の上杉で、私に敵う者はない、と単に事実を述べる口調で言った忍びに、うん、ともう一度頷いて、けれど佐助は目を閉じなかった。他国の地で眠りこける程酔う等、無理だ。昏倒するまで酒を流し込まれれば、意識が落ちた時には死んでいる。
 嗚呼俺は此れの前では眠れぬのだな、と、佐助はまた少し、悲しいなあ、と呟いた。

 
 
 
 
 
 
 
20070820
ここまでおいで 甘酒しんじょ