21 御面に手をかけ

 
 
 
 
 
 

 先日会った竜の右目は、主従は三世、来世までもお供すると迷いも疑りもない目で告げた。
 前後の会話は覚えていない。右目の主が幸村の主と相対している間、次の間に待つ供同士、何かたわいもない話をしていた時に、流れで来世の話となったのだ。
 宣言、と呼ぶ程仰々しいものではなく、ただ告げただけの言葉であったが、しかしそれは、彼の右目が疾うの昔にそれを心に決めてしまった、その為であろう。彼にとってそれは、至極当然の事なのだ。迷い疑る理由など、無い。
 さてお前はどうだ、と言う話にも、ならなかった。直ぐに主二人が戻った所為もあるが、しかし彼は幸村にはそれを訊かなかっただろうとも思う。彼にとってそれは、誰かと比べる様なものではないからだ。
 そういう意味では、おれは未だ未だ片倉殿には及ばぬ、と幸村は思う。しかしそれで良いとも思う。
 竜とその右目との主従の間に結ばれる絆と、己と主との間にあるものは違う。己は主を師と仰ぎ、高き目標として日々鍛錬を積むが、それはいつか師と肩を並べ、大いに師の為に奮闘したいという願いだ。
 だが、右目の言った来世に、興味がない訳ではない。無論、今生で成すべき事を成す前に、来世の話などしてはいられぬとも思う。その辺りもまた、あの右目とは一線を画する所だ。
 幸村は、師が成す天下を共に見、泰平の世を仰ぐまで、来世の夢など見てはおれぬと思う。来世へ旅立つという事は、死ぬという事だ。
 死を恐れはしないが、死して成せる物もまた、無し。
 師が志し半ばで倒れ、己もまた同じ様に死ぬとして、ならば来世で成せば良かろう等と、そんな事は言ってはいられまい。師が今生で天下を治め、泰平を築く事こそが、最善にして、唯一だ。つまり、来世で再び巡り会い、仕える事が出来たとして、今生が志し半ばであるのなら、悔いは残るというものだ。
 だが、今生を満足に終えたとして、そうして命を終わり、再び此の世に生まれる事があったとして、その時に師と巡り会えるとしたら、それは至上の喜びだ。必ず仕えたいと思う。記憶など無くていい。師の目、それを見れば、幸村は此のお方へ仕えるべきだと瞬く間に理解する。
 そう言うと、幸村の忍びは苦笑を見せた。それからそうだね、旦那はお館様と三世の縁で結ばれていると思うよ、と頷く。
 幸村は満足に頷き、それからふと気になった。
「お前は、どうなのだ」
 佐助は首を傾げた。幸村は促す。
「お前は、来世もおれに仕えるのか」
「へえ?」
 頓狂な声を上げ、佐助は旦那のお側かあ、とどうにもやる気のなさそうに頭を掻いた。
「何だ、厭なのか」
「んー、そういうこっちゃ、ねえですけどね。大体、人に生まれるもんかも判らねえし、来世なんてもんもね……」
 何にしても、と佐助は軽く肩を竦めた。
「俺は地獄に堕ちますよ」
 なので気にせず、と片手を振った忍びに、幸村は口の端を引き下げ、片眉を上げた。腕を組む。
「何処へゆくか、何処へもゆけぬか、そんな事はどうでも良い」
「どうでも良いって、あんたが言い出したんでしょうが」
「仕えたいのか、否かだ。おれと再び会いたいかどうかだ」
「そういう口説き文句は、狡いなあ」
「言え、佐助。今世で充分と言うなら、それはそれで良い。おれとお前の今生の縁は、他に無い程深いしな」
 はは、と何が可笑しいのか息を吐く様に笑って、佐助は柔く笑んだまま暫し黙った。
「………お仕えしますよ。来世なんてもんがあって、尚かつ巡り会えたらね」
「そうか」
 幸村は破顔した。
「ならば、連れてゆこう」
「え?」
「お前の来世へ、おれが連れて行ってやろう。お前の力、来世までも存分に奮え。地獄で楽隠居など、勿体無くてさせてはやれぬ」
 はあ、と気の抜けた返事をして、それから佐助はやれやれと肩を竦めた。
「じゃ、俺様が迷子にならない様に、あんたはぴかぴかしてて下さいよ」
「ぴかぴか?」
「こっちの話ですよ」
 ひらひらと手を振って、佐助は胡座の上へと下ろしていた苦無を取り、再び手入れを始めた。
 
 
 佐助が死んだのはそれから半月の後、手入れをしていた武具を振るっての戦場での事だった。
 
 
 
 
 行け行け、彼方だ、と叫び追い立てる楽しげな家人達から少し離れ、幸村は槍を片手に藪を掻き、殆ど崖の様な斜面を登っていた。
 幸村様、危のうございます、と背に掛けられる声に大事ない、と返し、幸村はばりばりと音をさせて枯れ蔦を掴んだ。そのままするすると上れば、下から感嘆の声と安堵の声がした。女達だ。
 猪狩りなど危ないのだからと女房共は置いてくる様言ってはみたが、皆真田の家人達だ。女と言えど好奇心も血気も旺盛、となれば、この様な見物、逃す訳もない。
 まあ今の時期はさほど飢えてはおらぬし、万が一暴れ出したとしても此の己が居れば大事ないと、そうあっさりと胸の裡に片を付けた幸村に、もう二十年も前に死んだ己が忍びが居たのなら、何と言って呆れただろうか。いい年をして、子供の様に崖登り等と、少しばかり叱られるかもしれない。
 そう考えて唇の端で笑い、幸村はふと、今朝方から何故か思い出してばかりいる橙の頭に、首を傾げた。死んで暫くは流石に気落ちもしたものだったが、此れほど鮮明に、意味もなく、懐かしく思う事など暫く無かった。
 さて、命日も遠い、夢に見た訳でもない、祟って出たと言う話もない、ならば何故と考えながら、幸村は斜面の上へと出た。四十路に差し掛かろうというのに未だ未だ身軽な躯は、そのどっしりと筋肉質な体格から少年と見紛われることなどは流石に無いが、年を言っても大体は信じてもらえない。自覚はないが、好奇心旺盛で、思った時には即実行する堪え性のなさも、それに拍車を掛けているようだ。
 
 ぴかぴかしてて下さい、と言った忍びの言葉が、ふいに耳奥に蘇る。
 
 いよいよ今日はどうかしている、と首を傾げながら、幸村は行った、そっちだ、行け行け、と叫ぶ声に追い立てられ、次第に近くなる地響きに、ゆっくりと向き直った。槍を構える。
「幸村様!」
「其方へ行きましたぞ!!」
「応、」
 低く答え、幸村は昂揚に笑った。蹄の音を立てながら低木を薙ぎ倒し現れた猪は、古傷だらけの躯で、普通の雄よりも二回りも大きい。此の辺りの主であろう。
 主殿か、ならば獲ってはならぬかな、と考えて、しかし猪の血走った黒い目に、引き様もない闘志を見て、此れは互いに退けぬ、とふっと小さく笑う。
「いざ、」
 幸村の姿に、僅かに足を弛めた猪は、けれど再び蹄に力を込めた。幸村は更に身を低く構える。猪の太い牙を剥きだした鼻面が、真っ直ぐに向かって来る。
「───何ッ!?」
 気合いの声を上げ、びゅうと振るった槍が、がくんと空を斬った。
 幸村は踏鞴を踏み、それからはっと背後を顧みた。一瞬、空を飛んだ気がしたと思えば、先程の立ち位置からずれた所へと立っている。猪は背後にいた。
 突き進んだ山の主はそのまま駆け、崖を落ちては下の家人達が、と頬を強張らせた幸村の心を読んだかの様に、くんと進路を変えそのまま山の奥へと駆け去った。
 幸村は深く息を吐き、身を起こした。今から追い掛けても、獣は人の行けぬ場所へと逃げるだろう。
 ゆっくりと首を巡らせ、幸村は斜めに天を指す槍の穂先を見た。その鋭い刃の先に、童が一人、立っている。
 顔には大圧見の面を付け、その大きな面ですっぽりと覆われ表情など見えない。頭の後ろで結わえた長く太い紐が余り、肩へと垂れ、草色の着物に真っ赤な蛇の様に映えた。
 槍に、重さはない。
「───童。お主、忍びか」
 童は僅かに細い首を傾げ、それから幸村様、とわらわらとやって来た家人達を見遣り、軽く膝を屈めた。跳躍する、と見て取った瞬間槍を後方へ引きながら放り、幸村はぐんと近付いた童の躯が消える前にどうにかその胴へと腕を絡め、諸とも転げる様に膝を突いた。
 童は驚きの声を上げ、腕の中から逃れようと身を捩る。それをさせず、背後から回した腕で着物の合わせを羽交い締めに掴み捉えて、幸村は目の前にある面の結び目へと歯を立てた。
 そのままするりと解くと、童は慌てて面を押さえた。細い項が襟から覗く。そこに掛かる髪は鮮やかに、燃え立つ夕陽の色をしている。
「佐助」
 歓喜に震えた、低く、熱い声が出た。童はぴたりと動きを止めて、不思議そうに首を捻り、未だ押さえた面で隠している顔を幸村へと向けた。幸村はもう一度名を呼び、勝手に吊り上がる口角に、嗚呼今おれはどれだけ恐ろしい顔をしているのだろう、と思う。狂喜する笑みなど、小さな子供には、笑顔には見えぬだろう。
 幸村は、小さな両手で押さえられた面に、驚かさぬ様ゆっくりと手を掛けた。僅かに力を込めると、さほどの抵抗なく面が外れる。
「佐助」
 かちり、と、目が合った瞬間、何かが落ちた。童の目から疑心と警戒がころりと消えて、替わりに得心が宿る。
 現れた顔は柔和で、大きな瞳は色が薄い。ふっくりと柔らかそうな頬は白く、かつての忍びの面影はあると言えばあるが、しかしそっくりそのまま、と言う程ではない。彼れに血縁がいたのならあるいはと、そう思う程度だ。髪や瞳の色がなければ、似ている等と改めては、思わぬかもしれぬ。
 しかしその鼻筋と頬に乗る、真っ赤な染料が。
 幸村は童を腕に捉えたまま、その乾いた染料の上を指で辿った。瞳を細める。
「………お主、此れを誰に聞いた?」
「別に、誰にも」
「誰にも?」
「うん。俺が考えた」
 気持ちが落ち着く、と言って、童は首を傾げる。橙の髪が、柔らかく肩に掛かる。
「お師匠が、だったら上田の里に行こうって、言って」
 だから来たんだよ、と言って、それから童は顔を顰めた。
「彼の猪は、此の辺りの主だからね。遊び半分に、狩っちゃ駄目だ」
「遊びでなくば、良いのか?」
「飢えを凌ぐ為なら、それも山の掟だろ」
 そうか、と頷いて、幸村は腕を弛めた。しかし童は腕の中から逃げる素振りは見せない。
「ならば、彼れは狩らずにおこう」
「そうして」
 頷き、それから童はへらりと笑った。途端に、かつての忍びの面影が宿る。
 幸村は思わず、その頬を両手に包んだ。ぱちぱちと睫を瞬かせ、童は幸村を見上げた。
「なあに、どうしたの」
「………名は、なんだ。佐助で良いのか」
「嗚呼、そうそう、それ」
 童は首を傾げた。
「なんで知ってるの?」
「お主の師は、白雲斎殿か。甲賀の……」
「そうだよ。何だ、お師匠の知り合い?」
「そうだな、昔馴染みだ。だが、もう十年以上もお会いしてはおらぬが……そうか、」
 彼の方にも佐助に思えたのだな、師と弟子もまた、主従の縁か、と笑えば、童は訳が判らない、と言う顔をした。幸村は構わず、その髪を撫でる。
「なあ、佐助」
「はい」
「此の真田源二郎幸村に、仕えてくれぬか」
 唐突な言葉に、遠巻きにしていた家人達が息を呑んだ。しかし当の童は、不思議そうな顔もせず、聡明な光を瞳に乗せ、それからゆっくりと口を開く。
「………俺様も不思議なんだけどね、真田の旦那」
 童は腕から抜け、山土の上へと膝を揃えて座った。
「お仕えしなくちゃいけないと思ってたとこなんだ」
 あんたの目を見たら、そう思った、と笑い、童は深々と頭を下げた。
「鷲尾佐助と申します。けれど母は元より、最早父も亡く、草としてお仕えするからには、名など不要。お好きに呼んで下さい」
「草などと思うておらぬ。真田忍びは、真田の、武田の誉れよ。……お前、いずれは猿飛と、名乗れ。………佐助」
 肩を掴み、軽い躯を持ち上げすっぽりと腕の中へと収まってしまう童を抱き締めて、よう戻って来た、と囁くと、佐助は首を傾げ、只今戻りました、と不思議そうな声で答えた。

 
 
 
 
 
 
 
20080627