斬っても斬っても群がる敵を薙ぎ伏せて、ようよう門を越えたかすがは巨大な月に照らされるその惨状に、息を呑み眼を瞠った。
幾ら戦忍とは言え、多くの敵を討たねばならない戦場でなら兎も角、普通は滅殺等するものでない。何も知らぬ者に此れを見せても、何処の名のある武将の仕業かと問われるに違いない。魔王とて、全滅の伝令を聞いて、まさか忍びが強襲して来たとは思うまい。
忍びは本来殺すことではなく目的の達成を見据えて動くものだ。其れ迄の間に出来るだけ姿を知られず傷を負わず速やかに目的を果たさねばならぬのだから、侵入であるのなら尚更、影を選び茂みの影を進み屋根を跳び、己が得物を一度も血に濡らすことなく敵の懐に潜り込めればそれが最上だ。
勿論、織田が戦を企む以上は、今集められている兵の数を出来るだけ削って置いた方が、万が一自分達がしくじった時への布石にはなる。
けれど焦りに焦ってただ駆けたかすがと違い、少し遅れて追って来たあの男は、甲斐の虎へと文は飛ばしているだろう。ここまでする必要は無い筈だ。
動く物など、倒れず残った松明の炎の踊る影の他は、何もない。それはもう忍びの仕事ではなかった。
気持ちの上では舌打ちをして、実際は音もなく速やかに、かすがは燃え上がる本殿を目指した。崩れ掛けた屋根へと飛び移ると、不発だった爆弾がじりじりと松明に焦がされて居る中こちらも屍が累々として、黒い瓦は月明かりにてらてらと、赤く光っている。
瓦の端からだらりと取れ掛けた腕を投げ出して倒れる鉄砲撃ちがいるかと思えば、下半身だけを残して残りの半身を階下に落とした足軽もいる。千切れた腑が夜風に煽られぶらぶらと揺れている。
武将には首が付いてはいたが、血飛沫の跡の中に大の字の、取れ掛けた首が月を凝視していて、無意識に首を狙いに行く程戦場が染み付いているのだな、とかすがは己を戒めた。
彼の癖のない戦い方をしていた筈の男に付いてしまった妙な癖は、己にも身に覚えのあるものだ。癖が有るのは、良くないことだ。其れによって誰の手による仕事なのかが判ってしまう。
どっちにしても、この惨状を引き起こすことの出来る忍びは、戦忍とは言え武田の猿飛くらいのものだろうと、知れては仕舞うのだろうが。
かすがには、出来ない。そもそもこれほど力任せの戦い方は、上杉の遣り方ではないのだ。彼の御方が、好まぬだろう。そう思えば、喩え出来る状態に有っても、かすがはしない。
だが、これほど滅茶苦茶な戦い方をしているのであれば、きっとあの男も無傷ではないだろう。
かすがは足を速めた。速く速く、前田慶次から情報を得て、狂ったように此の本能寺を目指した時の様に、風よりも速く。
そうでなければ彼の男は死ぬだろう。彼れが幾ら強くとも、一対一の戦いで、武人に───魔王に敵う訳はない。
彼れを、あるじの元へと返さねば。
久し振りに彼れを見たのは戦場だった。何処ぞの武家に戦忍として仕えると里を出て行ったのは覚えていたし、そう言えば真田と言っていたかとちらりと思ったが、そんなことは驚きに塗り潰されてしまった。
里に居た頃は、かすがの面倒を見、他の子供や若い連中の相手をし、大人達とも対等に話をして渡り合い、いつでも飄々と、俺に任せておけと自信満々で、けれど人好きのする笑顔には嫌味は無かったから、皆に好かれて妬みは軽くかわしてそうやってさっさと、外の世界へ出て仕舞った男なのだ。
しかし、久々に見た男は、鮮やかに変貌を遂げていた。
見た目はさほど変わりがなかった。忍びにしては少しばかり高い背も、痩身も、年が知れない童顔も、張り付いたへらへらとした笑い顔さえ何一つ、記憶の中の物と違いはなかった。
けれど、幾つも年下であろう、その相貌に未だ幼さを残す若武者を、旦那、と呼んだ甘えた声が、まるで頼みにでもするかの様な響きを込めて、
きらきらのかみさまでも、見るような目をして。
男はかすがを見て少し驚いて、里を抜けたと聞いていたけど上杉にいたのか、と言って、それから少し困った様に笑った。
ねえ逃げた方が良くない? 俺様の主はおっかないからさ、強いぜえ、と、笑み混じりに言ったその軽い声には本気が混じり、けれど男にそれだけ言わせる男の主を見遣れば、確かに抜きん出て強くは有ったがかすがから見れば、未だ、荒削りでしかなく、彼の御方の敵ではなくて。
その未熟な若武者を、男が頼みにする理由は判らなかった。判らなかったが、かすがは心の何処かで安堵した。
誰も頼みにすることなく、皆に頼みにされ、任せろと胸を叩いて、それを無理だと知らずに居た、彼の頃の男とは違うのだと。特別なものに巡り会えたのだと、そう思えばこそ。
幸い、その戦いでかすがは男とも、男の主とも刃を交える事はなく、その後幾度か戦場で出会い手を合わせたが、互いに命を獲るような事にはなっていない。
格別男との戦いを忌避する訳ではないしその時になれば躊躇いもしないが、けれど最初のあの時ばかりは、もう少し、彼の炎の武者の何が男に響いたのか、其れを知りたかったから、刃を交えずに済んだのはかすがにとって僅かばかり嬉しいことだった。
ぴしゃん、と爪先が血溜まりを蹴った。
音を忍ばずとも、最早誰も出ては来れまい。背から斬られた者も多い。逃走を図った者の命まで奪った刃は太刀のものではなく、矢張り彼の男の得物のものだ。刃は繊細だが回転の力で斬るものだから太刀よりも余程力が強く、多少の刃毀れは問題にならない。しかし限度と言うものはある。
傍らに転がる骸の肉の断面は酷く荒れて、覗いた背骨がばっきりと割れていた。男の持つ筈の大手裏剣は、もう、切れ味は無いに等しい。唯その重さと勢いで、相手を叩き割るだけだ。
先に進めば進むほど、頭を割られ胴を折られた骸が増えた。明らかに斬れていない。棒手裏剣や苦無が突き刺さる骸も有る。無限に持てる物でも無いから、戦忍の場合、これらの忍具を使い捨てることはそうそうはしないものだ。刃毀れした大手裏剣では間に合わなくなっているのだろう。
かすがは今度こそ、表に出して舌打ちをした。男が此れほど殲滅に力を注いだ理由は自分に有る。後から追うかすがを、彼処で敵に囲まれていたかすがを守る為に、余計な手勢を削いだのだ。
先に行けと───言ったのに。
構うなと、自分もまた、守られるばかりの未熟な見習いでは無いのだと、彼の男が変貌を遂げた様に、己もまた強く成長したのだと。
そう、言ったのに。
だのに、此れだ。
彼の男がもし死んだとして、男の主は悲しむだろうかとちらりとかすがは思った。
年下の若者に童の様な甘えた声で頼った男に答えた主は、男をちらりと顧みて嬉しそうに笑って、直ぐに目を前に向けた。以降背を追う男を顧みる事なく駆けて行った其の先には、虎の姿が在ったのだ。
彼の、嬉しそうに細められた目は、まるで餌付けでもして可愛がっている獣でも見ているかの様であった、とかすがは思う。
懐く様が可愛くて、無条件で懐へ抱き、よしよしと撫でて餌を与えて何くれと無く面倒を見て、けれど決してその人生に、其れの生き死にが影を落とす事はない。
屹度彼の男が戻らずとも、男の主は獣が戻らぬ程にしか、嘆かぬだろう。
でも、それでも、尚のこと、彼の男を主の元へと返さねばならない。
ひとの手を覚えた獣は主の元でしか安息を得ない。獣の摂理を失っても、己の命が尽きると判っていても尚、主の手からしか餌を食べないそんなものに、彼の男はなったのだ。
かすがと、同じ。
きらきらのかみさまを、得て。
嗚呼其れが人であるのなら、結ばれて、子でも成して、血と肉の臭いに囲まれて、泥臭くいつかどちらかが死ぬまで茶番を続けて生きていかれるか、そうでなくともいつかどちらかが愛想を尽かして路を分かつことが出来たのに、存在を見出してくれた彼の御方に、其の光に吸い寄せられてしまったから、もう、何も、人の子など孕めない。
かすがは最早女ではない。美しき剣と彼の御方の呼ぶ、人ではない、獣でもない物だ。
彼の御方は決してかすがに愛想を尽かすことはないだろう。かすがは剣で、虫程にも害の無い、彼の御方に何の影響もない、唯寄り添うだけの影なのだ。彼の御方はかすがを顧みることはないだろう。
けれどそれでもかすがは彼の御方の元へと帰りたく思うし、彼の御方の処で死にたいと思う。彼のつめたい光に包まれて彼の御方の為に死ねたなら、顧みられる事などなくともそれだけで、もう構わないのだ。
嗚呼、だから、彼の男も、また。
決して死なせる訳にはいかない。彼れはかすがと同じ物だ。
顧みられることのない、肉で繋がる事のない、けれどもう既に其の身に生涯流すことの出来ない何かを孕み抱えてひたすらに主を追う、そう言う身重の獣なのだ。
いつか其の重い身を主に疎んじられる日が来ると、して。
そうしたらその時には飢えて死ぬしかないだろう、と、かすがは胸の裡、今頃魔王と対峙している筈の男に叫ぶ。だから、それまで、身に抱えた得体の知れない物と共に、生きて主の元へと在らねば。
かすがは倒れ臥す小姓と喪服の女の間を擦り抜けて、燃え落ちようとする本殿へと向かい、音もなく跳躍した。
20061217
闇
文
虫
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