11 月を振り仰ぐ

 
 
 
 
 
 

「あ、ァ、……ッう、」
 獣の様に俯せ腰を上げたまま、喉を逸らせると顎が筵を擦った。乾いてささくれた藺草が、ざり、と音を立てる。自ら体内に潜らせた二本の指を無理に深く突き込めば膝が滑り筵に皺が寄った。
 指先に感じる柔らかで熱い肉はぬるぬると滑り、押し遣っても明確な痛みは感じない。ただ酷く頼りない手応えが返り、何処まで無茶をすれば腑が破れるものかと爪で掻けば、意志とは無関係に滑稽な程躯が跳ねた。
「ひ……あ、───ッあ、」
 じんと掻いた部分を中心に内腔が熱を散らせ、ぎうと指を食い締めると細めた目から勝手に涙が零れた。眉間に火花が散る様に、熱が弾けて散り散りに広がり、喉の奥に凝っていた嘔吐感が急激に込み上げて、喉が詰まり舌が縮み上がる。
「───ッか、は」
 横隔膜が痙攣をして、拳を作って耐えて居た自由な右手が勝手に筵を掴んだ。引き攣り強張った首が肩が背が、軋む。つと、唾液が口の端を伝い落ちた。瘧の様に痙攣を繰り返し、けれど痛む程縮んだ胃から胃液も吐き出せない。
 水くらいは飲んでおくのだったかと考えながら僅かに痙攣が止んだ隙にひゅうと息を吸えば、乾いた喉がひり付いて酷く噎せた。体内に潜らせたままの指を酷く締め付けて、腹側の弱みを押し付けられ下腹に力が籠もる。無理に勃起を促され続けて居る自身から、今更の様に先走りが落ちた。
 は、と未だ震える腹から息を吐き、ぼんやりと瞬くと瞼に溜まって居た涙が再び零れた。徐々に熱が落ち着き、じん、と痺れる様な温かさを丹田に感じる。其れで、少し醒めた。
 ゆるりと指を引き抜き、膝を弛めて横たわる。仰向けになり、暗く薄汚れた天井の煤の濃い部分を数えて、ひらひらと飛ぶ小さな蛾を見る。小さな炎の灯りに、鱗粉がちかりと光った。
 腰の奥の辺りに未だ違和感が在る。先程まで体内に潜らせていた指を持ち上げ眺めると、ぬるぬると光る其れに一筋やけに赤い色が混じって居た。
 暫し其れを眺めてぼとりと腕を落とし、だらしなく四肢を放ったままぼんやりと瞬いて、すっかりと躯が冷えるまでそうして、其れから、佐助はのろのろと起き上がった。
 結局、後始末をして着物を整え傷の疼きにうんざりとするのも自分で、こんな自虐の様な真似は、己の醒めた気質には酷く合わないものなのだと思う。自虐に伴う嘲笑よりも、もう少し後の、滑稽さの方ばかりが気になって、酷く疲れる。壊れたふりをしてみることに、さほどの価値は見出せない。
 
 ───お前を抱きたい、と。
 
 そう、言われた時に、咄嗟に答えに詰まった自分を真っ直ぐに見たまま、主は一拍を置いて、すまぬ、聞かなかったことにしてくれと発言を撤回した。
 引き留めて貰おうと思った訳ではないだろう。佐助の動揺を速やかに感じ取り、未だその時では無いと、もしかすれば一生訪れる事は無いだろう機会を先に送って、気遣ってくれたのだろう。
 その主の気遣いに甘えて、佐助は綺麗に無かった事にした。主はそんな佐助に眉を顰める事もなく、言葉通りに本当に無かったかの様に、その後も変わりなく振る舞った。
 其の姿に佐助は初めて、此の自らの心を偽ることの出来ない主が、機を焦らず唯静かに、揺らめく事もなく、上等な蝋の炎の様に、美しく燃え立つ事も出来るのだと知った。
 
 纏っていた単衣を簡単に整えて、乱れた筵を伸ばし、佐助は立ち上がり障子を開けた。縁側に、濡れた様な月明かりが落ちる。
 武田が天下を取って、もう数年になる。暫くは続いていた鎮圧に各地を奔走した主に付き従った忍隊も、規模を縮小して、実質は、無いに等しい。此れから先に必要な忍びは諜報に長けた者であって、戦忍部隊であった真田忍隊は、もう必要が無かった。
 無論佐助は諜報にも長けて居た。しかし目立つ赤髪と躯中に残る戦傷と売れ過ぎた名の所為で諸国に潜り込み動くには不利で、其れなら城下に住まう事で町の様子を具に拾おうと、そうして此処に居を構えてから、二年経つ。その間に正式に上田の領主と成った主は信州に戻り、佐助は京に残った。
 当然付いて来るものだと思って居た、と苦い顔をした主に笑って、もうちょっと此方が落ち着いたら、そうしたら他の者に引き継いで、其れから追うから、と、そう言った時には、真実、直ぐに主を追うつもりで居たのだ。
 嗚呼離れるべきでは無かったのだ、と、今更思っても遅い。
 何故主の側に居る事が当然だと思えていたのかと、一人になった今は、思う。
 まるで連理の様に、比翼の様に、比目魚の様に、立場も性質も全く違う彼の主の影で居る事が当然だと、彼の頃には思って居た。何故かと問われれば、其れは己が戦忍であったからに他ならないと、佐助はそう答える。
 戦場を離れた今、そして主の熱に目が眩み導かれるままに其の背を追って居た、其れを過ぎた今、佐助に在るのは本来己の質であろう孤独であって、其れ以外、何も無い。
 佐助は佐助であって主の何某かには成れなかったし、主無くとも変わること無く生きて行けるのだと、しみじみと思い知った。
 無論彼の炎の化身の様な主に誓った忠誠は紛い物ではなく、離れて居る事で胸の裡は多少の乱れは在るが、其れでも飯を食い、仕事をこなし、家内の事を済ませて僅かばかり眠る、其の生活は崩れない。生き様では無い。唯、日々の糧を得て、生きる事だ。
 日々を積み重ねて、先へ先へと生き延びて行く、其れをずるずると繰り返して、気が付いたら、二年だ。
 柱に寄り掛かり、座り込んで足を伸ばすと、脹ら脛の半分から先が庭先に飛び出た。猫の額程の庭は、去年の夏から造り始めたものだ。
 秋になる前に、冬が来る前に、此の雪が消えたら、と幾度も幾度も次の季節の前には信玄に暇を請い主の元へと戻ろうと思うのに、日々の生活の裡の余暇に、自然と土を弄り、市場で苗を求めては植え、来年が楽しみだねと声を掛けてくれる近所の女房達に上手くいけば良いんだけどと笑って、ゆっくりと、佐助は町へと馴染んで居る。
 昔馴染みには殆ど会わない。登城すれば無論信玄を始め主立った重臣と顔は合わせるが、彼らが此の家を訪ねて来る事は無い。
 ただ、たまに、京と加賀を行き来して居る風来坊だけが、甘味を持って顔を見せる。
 そう言えば此の間、上田の蕎麦を食べたいから、近いうちに遊びに行くのだと言って居た。何か伝言は在るかと言うから、時期を見て其方へ向かうから、もう少し待って居てくれと頼んだが、任せろと胸を叩いた何時までも子供の様な男が、忘れずに伝えてくれたかどうかは判らない。庭を見て、造ったのかい、好い庭だねと無邪気に目を細めた厭な所で聡い春風は、もしかすると敢えて伝言せずに戻るかも知れない。
 
 ───もう、彼の人の側に在る意味を感じない。
 
 そんなものは疾うに見失った。お前を抱きたいと言った主の本意を、無粋ではあっても彼の時問い質して置くべきだったのだろう。今更、どんな面をして訊けばいいのか、判らない。そもそも其の答えが、言葉通りの当たり前のものだとして、其れを理由に主の元に在る事は、酷く居心地が悪い様に思えた。
 しかし、次に主の元へと付けば、最後にはそう言ったものにならねばならない事ははっきりとして居た。主が無理強いをする、と言う事ではない。主の元に在る理由を無くしたと気付いた自分の方が、そうでなくては困るのだ。
 何か、明確に、彼の人の、側に居なくてはいけない理由が。
「───嫁さんでも貰って、」
 此の儘京に居着いちゃおうかなあと呟いて、ごん、と後頭部を柱にぶつけると、上がった視線の先に月が見えた。
 濡れた様に光る銀輪は彼の人とは似ても似つかず、なのに酷く鮮明に思い起こされて、嗚呼月に太陽にと重ねる相手は想い人だなと、口の中で呟く。
 疾うに其の忠誠を手中にして居た筈の主が、更に、もっとと佐助に求めた事は、彼の時、ほんの一瞬だけの事だった。
 彼の真っ直ぐな眼差しは呪いの様だった、と、今となって、思う。
 天井の煤の様に、少しずつ黒く侵蝕して来る其れを見ぬふりで過ごす事は、容易い。寧ろ直視して、真摯に対応しようと思えば、骨が折れるだろう。
 今更、戦忍以外の何として、主の側に在れば良いものか。
 佐助は月明かりを横切って、暗い屋内の炎を目指しひらひらと舞い込んで行く蛾をちらりと目で追い、彼の蛾の様に身を焼くか、こうして美しく濡れた光を仰ぎ遠く思うかの合間を、ゆらゆらと揺れながら決めかね続けて居た。
 肚の底に燻る鈍痛は熱を持ち、背筋を這う疼きに、明日は熱が出るかなと考えながら、佐助は冷えた夜風の中、ぼんやりと月を見上げ続けた。

 
 
 
 
 
 
 
20070201