07 手を合わせる

 
 
 
 
 
 

 鼻が曲がりそうだ、と言った語尾が詰まりぐうと喉が鳴った。気力で嘔吐を堪えて飲み込んだらしい幸村を肩越しに見て、佐助は溜息を吐く。
「だから言ったろ? もう、大人しく帰ってくれよ旦那。具合悪くでもされちゃ事だ」
「これだけの数の改め、お前一人ではどれだけ掛かるか判らぬではないか」
「旦那を気にしながらやるよりゃ早いよ」
「二人なら一人よりは早い」
「あんたが使い物になればね」
 むう、とむくれつつも幸村は頻りに生唾を飲んでいる。しかしまるで踵を返す様子はなくて、佐助は再び溜息を吐いてくるりと振り向き強情な主へと歩み寄った。
「旦那、ちょっと術掛けてやるよ」
「術?」
「鼻を利かなくしてやる。詰まったような具合になるけど別に躯の調子が悪いわけじゃない、あまり強く鼻啜るなよ。耳痛めるから」
 言いながら返事を聞かず目を覗き、ぐっと鼻をつまむと幸村は顔を顰めた。
「痛いぞ佐助!」
「我慢しなさいよこんくらい。そら、もう平気だろ? けどあんまりあちこち触ったり嗅いだりするなよ。汚ねえし、病持ちの死体もあるかもしれないからな。変な病なんか拾いたかないでしょ」
 おお、と呟いて深呼吸する幸村に、あーあ、術が解けたらげえげえ吐くぞあれは、と肩を竦めながら佐助は並べられた死体の顔をひとつずつ確認して歩く。隣の列の死体は幸村が覗いて歩いているようだ。まあ確かにこれなら幾分かは早く済むかも知れない。
「農民が混じっているように思えるな」
「敗走した連中が農民のふりしてただけだ、こんなごっつい農民なんかいるかよ。このあたりの民草はみんな、がりがりに痩せてる。今年このあたりは不作だったからさ」
 屋外だと言うのに、どれだけ風が吹いても漂う腐敗臭は薄れない。この周辺の村は悪臭に辟易しているだろう。山の獣も落ち着くまい。
 ぎゃあぎゃあと、腐肉を漁りに来た烏が喚いて、目当ての首を見つける前に食われては事だと佐助はぴゅい、と指笛を吹いた。ばさばさと烏が飛び立つ。
「おお、凄い数だな」
「絶好の餌場だろうからな。烏なんかよりおっかない獣が山から降りてくる前に終わらせようよ、旦那」
「何、某がいるのだ、案ずるな。獣如きに遅れは取らん」
「無益な殺生なんかしたら大将にどやされんじゃないの。獣に罪はないぜ、こんだけの臭い振りまいてる俺らが悪いんだ」
「佐助は獣に優しい」
「あんたは忍びに優しいね」
 首がねじ曲がった死体の髪を掴んで顔を確認し、ぽいと放って次の首を改める。
「まったく、大将討ち取ったり、て叫んでおきながら首取り忘れるなんてどうかしてるよ」
「仕方あるまいよ。鬨を上げるが精一杯だったのであろうから」
 一命は取り留めたものの、敵陣営でばったりと倒れたきり未だ目覚めぬ勇者を労うような声で窘めて、幸村は佐助、と手招いた。
「これは?」
「あー……違うな、似ているけど」
「そうか」
「旦那、ほんとに顔知ってんだよな?」
「何度か戦場で見たことがある。ただ、死に顔は見たことがない」
「そりゃそうだ。死ぬと顔は変わるからな……やっぱり難しいんじゃない。帰っていいよ、旦那」
「役立たずでも居させてくれ。陣に帰っても話し相手もおらぬ」
「いい年して人見知りしてんじゃないよ。まあ、軍議長引いてるみたいだけどさ……大将は未だ戻らないだろうな」
 同盟国の戦に助太刀をした武田の軍はもう大分後方に引いていて、今この陣に残るのは大将である信玄と幸村、数人の武田の武将と佐助の統括する真田忍隊の精鋭数名だけだ。幸村直属の忍隊とはまあ気軽に口は利けるだろうが、手が余っている者がいないだろう。そもそも忍びは普通主と世間話はしないし、したとしても佐助ほど砕けた調子にはならない。
 しかしいつもならひとり放っておかれたところで勝手に槍を振っていたり、槍の手入れをしていたり、何なら寝てしまっても構わないわけだから、幸村が人恋しがるようなことを言い出すのは珍しいことだ。
 獣じみた感性に何かが響くのだろうと、佐助は再び集まり始めた烏を追い散らしながら張り詰めていた気を更に鋭くした。ざわざわと、厭な気配が満ちている。まだ陽が落ちるまでは幾らかあるというのに山の陰が濃く、死臭に混じる腐葉の強い臭いが口の中をざらざらと浚う。
「………旦那ァ。こんな話知ってる?」
「どんな話だ?」
 うん、あのねえ、と明るい調子で言って、一転佐助はふっと声を潜めた。
「九十九髪の話」
「つくもがみ? あれか、器物のおばけ」
「いや、白髪の婆さんほう」
「何か変わったご老女でもいたのか」
 うん、と言って足下の、爆弾兵の爆発にでも巻き込まれたのか胸から下のない武者の、だらりと垂れた腑を避けて歪んだ顔を覗き込む。
「俺が里にいた頃に年寄りから聞いた話だけど、その年寄りがまだ若かった頃、とある城に忍び込んだことがあるんだと」
 
 まだ若かったその忍びは、捨て駒であると承知しながら無謀を冒してその城に潜り込んだ。無事情報を持って帰れば、内容如何によっては俄の主に取り立てて貰える、そういう手筈になっていた。
 首尾良く城に忍び込み、その城の忍びの手により張り巡らせられた蜘蛛の巣を極力壊さぬよう天井裏を這い、そうして城主の寝所の上まで比較的難なく辿り着けたのを、若かった忍びの血気に逸った頭では疑問に思うことはなかったと言う。
 そっと板の隙間から室内を伺うと、城主は褥に座り誰かと話しをしている様子だった。衝立の向こうに居るらしい相手は、生憎忍びの位置からは見えなかった。もう少し天板をずらせば覗けたのかも知れないが、それまで僅かばかり欠落していた警戒心がぞろ頭をもたげ、忍びはそれ以上は中を覗くことをせずにただ聞き耳を立てたと言う。
 
 思えばそれが幸いした、と年寄りは歯の欠けた口をにいと開いて嗤った。
 それの姿を見ずにいたから、恐らくおれは、死なずにこの年まで生き延びたのだろうからな。
 
 城主は衝立の向こうへ向かって、それでは、と潜めた声を更に潜めた。
「いつまで守って頂けるのだ」
 衝立の向こうで、しゃがれた声が「二代のちまで」と答えた。城主は唸る。
「儂の息子の代までか」
「そうじゃ」
「その後はどうなる」
「運が在れば続く」
「無ければ」
「滅びる」
 もう一度唸り、逡巡をしてけれどそれまでに散々に思案を繰り返していたものか、さほど時間を掛けずに城主は組んだ腕を解いた。
「………あい判り申した。当主が首、二代のちまで守護して下され。拝んで頼み申す」 
 承知、としゃがれた声が答え、城主はほっと肩を落とした。それをただし、と続いた声が咎める。
「おまえとおまえの息子の首、首尾良く守り通せたら、一つ褒美を寄越しゃれや」
 褒美、と鸚鵡返しに呟いた城主に、そう、褒美じゃ、としゃがれた声が浮かれた笑みを込めた。
「おまえとおまえの息子の首を守り通せたなら、この家が滅びるその代のおまえの血に連なる者の、」
 
 首を喰わしゃれ。
 
 ざわりと血の臭いが周囲を満たしぞくりと忍びは震えた。その気配に、化け物の───忍びはその声を疾うに人外の者であると決めていた───声が、何奴、と鈍く空を震わせ誰何した。
 衝立がどっと倒れ、ちらりと覗いた白の乱れ髪と嗄れた手を視界に納めるや否や、忍びは飛ぶように駆けてそのままようよう城を飛び出し、追って来る妖気に当てられその後七日七晩高熱に魘された。
 
「………で、城仕えはなったのか?」
「当然お釈迦。情報も取れなかった、躯を壊したじゃ、取り立てて貰える訳もないさ。けどもう疾っくにその城に仕える気はなくなってたらしいから、まあ良かったんじゃない」
 ふうん、と相槌を打って幸村は佐助の隣へと並んだ。仕事してよと唇を尖らせるも、右から左でそれで、と首を傾げる。
「佐助はその話を信じておるのか?」
「まあ、半々かな」
「ということは、半分は信じておるのだな」
「この話をした年寄りは、嘘を吐くような奴じゃなかったからね」
 まあ幾分か呆けちゃいたから、それが半分、と言えば、幸村は唇を吊り上げてからかうような笑みを見せた。
「佐助がそんな話を信じるとは思わなかった」
「何言ってんの、忍びは結構迷信深いんだぜ。狐狸を真似て使う奴だっているし───まあ世の中の怪異譚の九割は嘘と勘違いだろうけど、俺も幽霊みたいなもんなら何度か見たことあるしね」
「……初耳だぞ」
「話してどうなるもんでもないだろ。大体、夜闇に乗じて血腥い仕事だってするんだぜ。祟られないほうがどうかしてる」
「佐助が祟られるのなら、某は万倍祟られ呪われているわけだ」
 へへ、と笑って佐助はどし、と幸村の胸を叩いた。
「旦那は平気さ」
「何故だ」
「火の気が強いからさ。怨霊なんてのは、明るいところは嫌いなもんだよ」
「ならば佐助も、某の傍にいれば平気なのだな」
 陰の気など焼き尽くしてくれるわ、と笑う幸村に、しょうがねえなあ、と苦笑をして佐助はふと視線を主の向こうへと向けた。そのままついと幸村を押し退け、骸の合間を歩いて行くと、どうしたと声を上げて主が付いてくる。
 佐助は黙って、その一際厳つい鎧武者の、陣羽織の襟を掴んでぐいと持ち上げた。幸村を顧みる。主は目を見開き、それから僅かに頬を強張らせた。
 
「───『首を喰わしゃれ』?」
 
 首を落とされた訳でなく、顎から下だけを残して頭部をばっくりと、大型の獣にでも喰われたかのような骸の陣羽織には、探し人の家紋が縫い取られていた。
 佐助は溜息を吐いて、ぽいと骸を放る。
「首は諦めたほうが良さそうだ。なにがしかの、腹の中にあるようだし」
「獣か」
「そうね」
「………九十九髪か」
「そうかもね」
 じゃあ帰ろうか旦那、さっさと躯拭いて着替えよう、とぽんと肩を叩いて踵を返す。数歩進んでも付いてくる気配がないのに振り向くと、幸村は丁寧に手を合わせ、深く瞑目していた。
「旦那」
「目を醒まさぬのは、妖気に当てられたのであろう」
「え?」
「お前は某の傍に居ろ」
 陰の気など某には効かぬ、ときっぱりと言って、幸村は頭部のない骸を睨み踵を返した。そのままぐいと佐助の腕を取り歩き出す。
「何、旦那。さっきの話、信じたの?」
「お前がおれが付いてくるのを嫌がった理由が判った」
 厭だな冗談だよ、と笑い掛けた佐助に笑みのないまま言って、幸村は首を巡らせその真っ直ぐな目で見詰めた。
「お前が突然、あんな話をし出した理由が判った」
 再び佐助を引きずるように急ぎ歩き出しながら、今夜は烏にくれてやろう、明日夜が明けたら火を放って浄めてやろうと火傷しそうな程の陽の気ばかりを纏った主が言った途端、背後でばさばさと、強く羽音の音がした。
 
 どこか暗がりで虎視眈々と狙っていた烏どもが舞い降りたのだと、佐助はぞくりと肩を竦めて自らと主が生きながら喰われて仕舞わぬよう、指笛を吹いて行く先の死の鳥を払った。

 
 
 
 
 
 
 
20061126