06 花と骸

※作中、差別的な表現(特に女性に向けて)が多くありますが、作品の表現以外の意図はありません。嫌悪を感じられる方は読まないことをお勧めします。

 
 
 
 
 
 
 
 

 かすがの一番古い記憶は暗い寺院である。其処に煌めく一筋の剣だ。
 
 幼い頃の記憶は曖昧で、恐らくその大部分が毒性のある強い薬の中毒の為だろう。
 初めて毒を飲んだのはまだ初潮も迎える前の事で、飲めと差し出された湯呑みの中の、酷い臭いのする其れに躊躇はしたが、迷信深いかと思えば国で聞いていたよりもずっと科学の進んだ、動物学や植物学、薬物学に特化した者等だと言う事は判っていたから、此れも薬であろうと一気に煽り、卒倒した。
 直ぐに高熱を出して寝付き、嘔吐と下痢を繰り返し襲い来る悪魔の幻を見て、十日も生死を彷徨ったが、何とか生き延びればまた同じ毒を飲まされて、けれど其れを繰り返す内、やがて椀に三つも飲み干しても、けろりとしている様になった。しかし引き替えに、物忘れの病の様ではなく朧に憶えては居たが、かすがは幼い頃の記憶の大半を、置き去りにしてしまった様だった。
 生まれ付いての名は、かすが、等と言うものではない。天の父から頂いた、聖なる名も持って居た。
 しかし其れらは此の国ではまったく役に立たないもので、だからかすがは名を名乗らず、必要あらばただ呼び名をかすが、と、名乗った。
 難破船からかすがを拾ったという里の者の大半が、呼び名はあれど、名は無かった。
 
 かすがは既に女ではない。
 躯付きは女だが、初潮を迎えた際、妙にどす黒いその経血に困惑したかすがに、里の女が蕩々と諭した。
 曰く、お前は子を産んではならぬ。此れから五年の間にお前の躯の内から子の種となるものは粗方死んで流れ出てしまうから、どれだけ男の精を受けようとも十中八九孕む事はないが、もし何かの弾みで孕む事があったにしろ、判った時点で堕胎しなくてはならない。万が一産んでしまった場合、産声を聞く前に縊り殺せ、と。
 産声を聞けば女は子を縊れぬと、くのいちになり損ねた孕み女は言った。女は毒に耐えられず、しかし里から出て行く程の才覚も認められずに、そうして里の子供の面倒を見ている者だった。
 何故折角授かった者を殺さねばならぬのか、と訊けば、女は痛ましげに眉を顰めた。そして熱い程に温かな手を、かすがの子供にしては体温の上がらない肩に置き、励ます様に撫でた。
 お前の躯には毒が流れているのだから、と、女は言った。其の毒は子に強く作用して、まともでない者を作るのだ、と。
 もし奇跡の様にまともな見た目の者が産まれたとして、騙されてはならぬ、と女は言った。其れこそが最も危険な奇形であるのだと。
 気狂いであれば未だ可愛いが、見た目は五体満足に人の形をして居たとして、其れの内には魂は無く、虚の躯に鬼が棲む。
 
 鬼は恐ろしいのだ、と言った女は、美しかった。だから良く、誰とも知れぬ者の子を孕んでいた。其の容姿の為に、そう言った用途で生かされていたのかもしれなかった。
 忍びと言えど男は男、何より忍びにはなれぬと落ちこぼれの烙印を押され、里の内から出る事が叶わなかった半端な者らは、普段鬱屈したものを抱えて生きていた。惨めな男共に其の美しい女が餌食にされているのだと思えば腑が煮えくり返る思いもしたが、当時唯の童であったかすがに、何が出来るはずもない。
 女は自身の言葉通りに、産まれた子の父が毒の躯を持った忍びである場合、一人残らず始末していた。我が子を平然と縊る血も涙もない者の様に振る舞い乍らも、影で一人声を殺して泣く痛ましい慟哭に、何も言えずに居た自分が酷くもどかしかった。
 
 やがてかすがは年頃になって、くのいちとして教育を施される時期が来た。しかし伸びる手に噛み付き暴れに暴れ、自らの命を絶つ事などかすがに染み付いた聖なる名が許してはくれなかったが、しかし夫となる者相手以外に純潔を失うなど、考えられる事ではなかった。
 もし、そうなったとして、汚れた身となっても幾度でも抵抗してやろうとかすがは決めていたし、其れを宣言もした。己を汚した者を殺すまでは止まってはやらぬと思っていたし、誇りの為に命を懸けて立つことに、何の躊躇いもなかった。
 しかし其れが生業となるのだと諭されて、初めて己が娼婦と並ぶ、家畜にも悖る立場に置かれて居る事に気が付いて、かすがは愕然とした。
 其の里の者が、忍びが、草、と呼ばれる理由に思い至り、記憶の霞みに遮られ其の御名すら朧気な神を仰ぎ嘆けば、男共は溜息を吐いてかすがを牢に繋いで去った。
 
 かすがが懲罰を受けている間に、どんな話し合いがされたかは判らない。しかし世話を見てくれていた彼の女が、お前は言葉は綺麗に話せるようになったけれど砕けた市井の言葉が難しい、加えて其の気性と髪だ、忍ぶには向くまいと、握り飯を差し出しながら言った。
 女ながらに異国の侍であったのだね、と言うから、かすがは神の剣である事をそっと告白して、其れを、騎士と呼ぶのだと告げた。そして正しき名と聖なる名を告げて、髪を撫でてもらい、翌日、戦忍の集落へと移された。
 
 戦忍の仕事、と言うものは、かすがの其れまで学んできた物とは大分違った。身に含まねばならぬ毒の種類も増えて、だからかすがはまた暫くの間、戦忍向きの躯を得るために熱と苦痛と幻覚と戦った。
 しかし元々剣であったかすがには、女である事、人である事を使い市井へ紛れ込み、夜に潜んで人の世の裏側を暗躍するよりもずっと性にあって居る様に思ったから、技を得るに励んだ。
 無論此処にも下劣な男と言う者はいて、そう言った者等に力無い女は屈服させられる事もあったが、かすがはそれらなど苦無一つで首を掻ききれる程に飛び抜けて強かった。かすがは同じ年頃の娘達よりもずっと背も高く力も強く気高かかったから、同期の少女達を守り幾度か男共と戦い、そうして、子忍びの間にある程度の秩序を得た。
 戒律、という程のものはなかったが、里にはもともと大変に合理的な秩序が敷かれていた。修行は厳しかったが、気性や能力の向き不向きと言う物は鋭く見据えられていて、かすがの場合、試練に忍び耐える必要はあっても其の誇り高い矜持を折らねばならぬと言うことは無く、だから此れも、生くるに必要な苦痛であるのだと幾らでも耐えて行けた。
 しかし子供の間には子供の、若者の間には若者の秩序はあって、里の秩序を乱さぬ限りは大人は其れに口を出しはしなかった。合理的なだけあって、決して優しい関係を築ける場所ではなかった。
 
 秩序を造り上げ、女である事で蔑まれ汚される身を守り、どれほどの試練にも凛と立っていたかすがが膝を折ったのは、初めて人を殺した時だった。
 訓練通りの動きで簡単に喉笛を掻き切って、実感も無く戻る途中、ご苦労だったと僅かばかりの、しかし報酬には違いない其れを受け取って、急激に気分が悪くなった。
 共に戻る幾人かと道を分かれ、林の隅に蹲り一頻り吐き、荒い息のまま胃の痛みに涙ぐむ目を拭っていると、竹筒が差し出されて驚いた。
 何の気配も無く近付いた其れはかすがと同じ戦忍の里に居た男で、割に親しくしていた者だった。かすがよりも幾らか先に独り立ちをして、新人を多く交えた此の仕事の為に、一時里へと戻って来ていた男だった。
 何処で冷やしたのか温くなりきらない水を渡し、男はつと林の合間に姿を消したが、程なく戻った。木漏れ日にちらちらと、鬼火が揺れる様が見えた。目を凝らせば男の髪だ。
 
「ほら」
 
 手渡された野の花に、かすがは瞬いた。驚いている間についと髪に花簪が挿されて、男を見る。
 うっすらと笑った久々に見た顔は、里にいた頃と変わらぬ飄々としたもので、色の薄い目にちらちらと木漏れ日が透く様が水面の様だ。
 人を、殺して来たばかりだと言うのに、其の目は何一つ翳りが無い。戦にも赴いて、数えきれぬ程の者を屠ってきたはずだと言うのに、子供の頃から変わりがない。
 瞳を慈しむ様に、労る様に優しく緩ませて、けれど目の色だけが、全てを映し込み流すだけの其れが、獣の様な魂の無さを、見せ付けた。
 
 唐突に、毒の赤子の話を思い出す。
 
 初めて出会った時に親は異人かと訊いて、知らぬ、と答えた其の声に嘘偽りは無かったから、きっと男は己を知らぬのだろう。
 そうか此れは鬼の棲む虚であるのかと、かすがは俯き、強く目を閉じた。はらはらと頬を涙が伝う。
 男は何も言わずにそっとかすがの髪を撫でた。違え様もない慈しみの心に見えるのに、其れがただ骸を動かすだけの、人に見せるための鬼の擬態である事を察して、かすがは静かに、野の花を抱き締めた。
 鬼に動かされるだけの骸は、偽りの心を真実だと思い込んだまま、かすがの髪を撫で続けた。

 
 
 
 
 
 
 
20070403