05 水面から顔

 
 
 
 
 
 

「もう二度と会う事もねえけど」
 天下泰平の世が訪れ、忍隊を解散したその日に挨拶に来た忍びは勿体ぶってそう言うと、にこりと笑った。
「出来れば、たまには思い出して下さいね」
 それだけで、他はいらない、と続けた忍びは飾り事の様な言葉とは裏腹に結構な金を手に、何処か遠くで商売でもしようかな等と嘯き姿を消して、そして言った通りに、二度と姿を見せなかった。
 
 
 
 
 その休みの日、幸村は朝から釣り糸を垂らしていた。
 釣りが趣味等と言えば旦那も丸くなってもんだね、と面白がる様な声を出すだろうなと久方ぶりに己が忍びを思い出し乍ら持っていかれてしまった餌を付け、再び針を投げ入れて水面に目を落とせば、ゆらゆらと広がる波紋の奥から次第に白く顔が像を浮かび上がらせる。何気なくそれを見遣り、幸村はふっと目が合ったそれに、瞬いた。僅かにずれて、水面の顔が瞬く。
 ぎょっとして顔を上げれば、いつの間にか傍らに居た童が覗き込んでいた水面から顔を此方へと向けた。
「……お主」
 幸村はまじまじと童を見た。童は無表情に幸村を見上げ、それからにっと生意気な顔で笑う。
「釣れる?」
 空の魚籠を指差して訊くのにいいやと答えて、幸村は腰を下ろした。童は突っ立ったまま、幸村を見ている。その髪が、明けの空の色をしている。
「お主の父の名を、訊いても良いか」
 童は肩を竦めた。その仕種までもに、既視感を覚える。顔立ちもまた、彼れが此のくらいの年であったなら恐らくと、そう思わせるものだ。
「俺様の名前より先に、親父の名前なの」
「それは失礼仕った。某は真田幸村源二郎と申す者。お主の名を、訊いても構わぬか」
 未だ十にも遠そうな、その年に似合わぬ大人びた言い方で茶化す言葉に大真面目に返して、幸村はゆるりと瞳を弛めた。
「お主は、おれの部下に良く似ておるのだ」
「まっ、そうだろうね。俺の親父はあんたの忍びだったんだもの」
 言って、己の名は名乗らずに、童はぺたんと幸村の隣へ膝を抱えて座った。此の童もまた忍びであるとすれば名乗ってはいけぬ理由があるのやも知れぬ、と名乗らぬ事を咎めずに、幸村はそうか、と二、三度首を揺らして頷いた。
「彼れは、息災か」
「うん」
「里におるのか?」
「うーん、」
 秘密、と言って、童は頬杖を突く。
「あんたの様子を見に来たの。元気なんだよね」
「嗚呼。其れなりの年にはなったが、風邪一つ引いた事もない。お館様も、お元気でおられる」
「………ふーん」
 信玄の名を出した途端、ぴり、と僅かに凍った空気にちらと視線を落として、幸村は顔は水面に向けたまま、知らぬふりで続けた。
「そろそろ、幸村も嫁を取らぬかと近頃そればかり申されてな」
「つうか、あんた未だお嫁さんもいないの。いい年じゃない」
「それが、どうもおれは女子にもてぬでな……」
「もてるもてないじゃないでしょ」
「はは、」
 笑って誤魔化すなよ、と唇を尖らせた童にちらと悪戯に目を向けて、幸村はそれよりも、とにんまりと笑った。懐へ手を遣り、取り出した飴玉を渡す。
「彼れが嫁御を娶り、子までなして、その上それを此のおれに会いに寄越すとはな」
 童はからころと口の中で大きな飴玉を鳴らして幸村を見上げた。
「意外?」
「うむ。お主の父は、己の事はおれには何一つ語らなんだ。おれが彼れに興味がないと、そう思っておったのだろうな」
「興味、あったの」
「おれは彼れに惚れておったゆえ」
 途端、ぐっと飴を詰まらせて噎せた童の背をばんと叩き、幸村は喉を鳴らして笑った。
「気を付けろ。忍びの子が、飴を喉に詰まらせて死んだ等と」
「あ、あんたが、変な事言うからだろ!」
「変な事などあるものか」
「変だよ! 親父が聞いたら泣くよ! 真田の旦那がこんな人になっちゃったなんて、て!」
「三十路も過ぎたのだ。何時までも童の様ではおらぬわ」
 ふん、と楽しげに肩を揺らして鼻を鳴らし、幸村は釣り糸を上げた。また餌ばかりが持っていかれている。
「釣り、下手だね」
「此れだけ大騒ぎしていてはなあ。掛かっても判らぬし、そもそも魚が寄り付かぬ」
「俺様のせいだっての」
 唇を尖らせた童の頭を拗ねるな、と乱暴に撫で、幸村は釣り糸を引き寄せ餌を付けた。
「訊いても良いか?」
「何?」
「お主の母は、誰だ?」
 童は半眼で幸村を見た。
「聞いてどうするの? まさか、恋敵だなんて言って、乗り込むつもりじゃないだろうね」
「ませた事を言う。……かすが殿か?」
 童は大きく目を瞬かせた。
「なんで?」
「お館様が天下をお取りになった後、彼れが姿を消すのと前後して、かすが殿もまた、行方が知れなくなったと聞いたのでな。まあ……あの時期は、多くの忍びが次々と去った頃ではあったから、たまたまと言えなくもないが、しかし彼れは、かすが殿と仲が良い様だったから」
 ふうん、と呟いて、童は水面を見詰め、それから違うよ、と囁いた。
「別のひと」
「……そうか」
 ならば合点がいった、と幸村は餌を付けた釣り針を放る事なく竿を傍らへと置き、童へと向き直った。
「佐助」
「───え?」
 幸村は細めた目で童を見詰める。見れば見る程、己が忍びの面影が濃い。髪の色まで寸分違わぬ。
「佐助であろう。───何故に、そのままの姿で会いに来ぬ」
「何、言ってるの」
「お前が、かすが殿以外の女子と、結ばれても良い等と思うものか。含んだ毒がどの様に作用するかも判らぬ、戦忍が子をなすなど子が哀れだと、いつかそう言って聞かせたではないか。お前がかすが殿以外の誰と、その哀れなものを支えてゆこう等と、思えるものか」
 かすが殿でなければ他の誰でもない、ならばお前は誰だ、と滲む慈しみを隠さず問えば、童はじっと幸村を見詰め、ふいに姿を消した。
 かと思えば水面の上に気配を感じ、はっと見遣れば水の上、何の支えも無しにぽつんと爪先から波紋を広げて、陽に綺羅綺羅と光る髪が靡く。
「───かすが殿、」
「お前の様子を見に来たんだ。最期まで彼奴が、気にしていたから」
 静かな言葉に、幸村は瞬間息を呑み、それからゆっくりと溜息を吐いた。
「死んだか」
 かつてと変わらぬ姿にも思える美しい女は、応とも否とも言わずに幸村を見ている。
「………何故死んだ」
「聞いてどうする」
「戦の傷が元か」
「己の所為だと思いたいのか」
「違う。……が、一つくらい、彼れの事を知っておいても、罰は当たらぬであろう」
 女は大きな瞳を細め、そうだな、と微かに囁いた。
「聞いて、後悔をするな。私が地獄で、彼奴に恨まれる」
「後悔などせぬ」
「他言も無しだ」
「無論」
 ならば教えてやる、と言って、女は低く続けた。微かな声は途切れず耳に届き、相も変わらぬ忍びの技に、此の女が未だ薄暗がりを歩む生き物である事が知れる。
「彼奴はお前の元を去ったが、武田の元を去った訳ではなかった」
 幸村は瞠目した。口を開けば叫びが出そうで、ぐっと奥歯を噛み締める。
「お前の主は秘密裏に、お前の忍びを買ったんだ。狡猾な虎らしい遣り方だが、戦も無い今の世で、お前の側に彼奴を置いておく意味は無い。お前の側に居れば、否応なく目立つ。闇の仕事等、任せられる訳もない」
「───お主は、」
「私もまた、彼の方の影だ」
 皆が皆ではない、殆どの忍びは表向き通り、何処かへ姿を消して市井に紛れ、盗賊に身を窶し、そうして多くの者が死んだ、と女は呟く。
「信玄が、お前に嫁を娶れと言い始めたそうだな」
「…………」
「彼奴を、お前に返す事が出来なくなった、その為だ。……恐らくは」
 だから早く忘れろ、と初めて聞く様な優しい声色で続けた女に、幸村ははっと瞬きをした。その時にはもう女の姿はなく、消えかけた波紋ばかりが残っていて、幸村はゆらゆらと揺れる水面を見詰め、それから噛み締めて居た奥歯を鳴らした。ひゅう、と大きく息を吸い込んだ喉が鳴る。
 かつて戦場で上げた様な獣の咆哮に、水鳥が飛沫を上げて飛び立った。

 
 
 
 
 
 
 
20080527