04 鏡に映るもの

 
 
 
 
 
 

「馬鹿だな」
 佐助の愚痴の様な話を聞き終えて、長い長い沈黙の後に、吐息混じりに密やかに、かすがは呟いた。太めの枝を跨いで座り、ぶらぶらと足を揺らしていた佐助がぽかんとした様な、いつもの気の抜けた顔で腕を組んですらりと枝の先に立つかすがを見上げる。
 割れてしまったという額当てを新調している最中なのか、剥き出しの顔の左のこめかみから頬までが赤黒く変色し、左目の白い筈の部分は黒く凝固した血が沈む。黒目を赤く血の色が縁取って、酷い有様だ。隙間無く着込んだ装束の下は、幾重にも晒しが巻かれるのだろう。薬の臭いが鼻腔を突く。
「何が、馬鹿よ。馬鹿はうちの旦那だって」
「概ね同感だが、此れに関してはお前が馬鹿だ」
 と言うか、お前はいつも馬鹿だと言えば、佐助は冷たいねえ、と肩を竦めた。
「だってさ、」
 再び支配した沈黙に手持ち無沙汰になったのか、俯いて枝に揃えて突いた手甲に包まれた手を眺めながら、佐助が口火を切った。
「たかだか忍びじゃないの。其れがちょっと死に掛けたからって、大袈裟なんだよね。実際死んだわけでもなんでもないってのに」
「しかしお前は、真田の腹心だろう」
「───まあねえ。別に、武家じゃないから捨て置けなんて言うつもりはないんだけどさ。そんだけの働きはしてるつもりだし、真田の家は忍びの扱いが良いし、草如きなんて蔑もうものなら、足軽だってぶん殴られるよ。死ぬっての」
「それで誰か死んだことはあるのか」
「あるわけないよ、言葉の綾だろ。今日は随分揚げ足取るねえ」
 何なの、珍しいねと笑う、傷が痛むのか少し歪んだ笑顔にかすがは薄く目を細めた。
「けれど、嬉しかったのだろう、心配をされて」
「うん」
 ふと笑みを収めて、こくん、と頭を落とす様に頷いた佐助は、其のまま顔を上げずに続けた。
「問題だよねえ、其れは」
「何故だ」
「だってさ、怪我したのは別に俺だけじゃないし、死んだ連中だって大勢居たのに、あんな大声で大丈夫なのか痛むかとか喚かれて、ほんとなら他の者に示しが付かないって言うべきとこじゃない」
「腹心なら、そう忠告して然るべきだ」
「だろ?」
「だが、其れと、お前が嬉しいと思うことは、別だ」
 つと、視線が上がる。嗚呼全く、とかすがは内心で溜息を吐く。こうも、救いを求める様に、何か都合の良い言葉をくれないかと、餌を期待する野良犬の様に、かすがを見る此の男に馴染みがない。
 子供か、全く、子守など、と今度は本当に溜息を吐いて、かすがは小さく首を傾げた。長い横髪が、さらりと乾いた音を立てる。
「主に褒められれば嬉しいし、心配をされれば申し訳なく思い乍らも嬉しい。其れはどちらも同じ気持ちだろう。主に寵愛を受けて、嬉しくない者など居ない」
「いや、違うんじゃないの、其れは、」
「無論過ぎた寵愛は乱を呼ぶが、違わない。其れは同じ所から出る気持ちだ。違うと思うなら、其れはお前の気持ちが違うんだ」
「意味がよくわかんねえ」
「お前にあるのは忠心では無いのではないか、と言っているんだ」
 大きく見開いた目を暫し見詰めて、かすがは小さく、私はそうなんだ、と呟いた。
「上杉の将は、謙信様にお慈悲のお言葉を頂けば、涙を流して喜ぶ。戦い傷付いた身を労られて、嬉しくないわけはない。其れはみな忠心から出るものだ。彼の方の為なら幾らでも尽くそうと、そう思えばこそ涙も流れる。───けれど、私は、彼の方々とは違う理由で、涙が出る様な気がするんだ」
 其処まで言って、かすがは黙った。此の男に、話してやる様な事ではなかった気がする。
 何時になく落ち込んだ様な、自己嫌悪にまみれている様な、瀕死の床から漸く起き上がったばかりの癖に居心地が悪かったのか城を抜け出して来た幼馴染みの姿に、いつもの飄々とした風を見出せなくて、自分まで動揺したのだ。傍迷惑な話だ、とかすがは憮然と眉を寄せる。
「いい、忘れろ」
「は?」
「忘れろと言って居る。そしてさっさと帰って、他の者に示しが付かないから構うのは止めろ、けれどお慈悲を頂戴したことは感謝すると涙の一つでも浮かべてやれ。其れで納まる」
「うえ、何それ。其れこそ主に失礼じゃないの。あんまりうちの旦那、馬鹿にしないでくれる」
「真田幸村を馬鹿にしたんじゃない。お前に呆れて居るだけだ」
「何だよ、もう、相談に乗ってくれたんじゃないの」
「言葉を違えるな、らしくもない。相談ではなくて、愚痴を零したかっただけだろう」
 瞬間、僅かに言葉を呑んで、佐助は其れから苦笑を浮かべた。
「手厳しいな」
「惚気よりはましだ」
「俺様がいつ惚気たって? こんなにお前一筋なのに」
「軽口を叩ける様なら、私にまで愚痴を零すな」
 続け掛けた言葉を喉奥で留めて、口を閉じ、其れからかすがは腕を解きついと北の彼方へ視線を向けた。
「私は戻る。お前もさっさと戻って、養生しろ。そんななりで、出歩くものじゃない。仕留めてくれと言っている様なものだ」
「お前は仕留めないわけ?」
「今お前を仕留めて武田と事を構えても、雪の季節だ、上杉に得は無い。武田が春に向けて力を蓄えて居る間、我々はじっと、季節が去るのを待って居なくてはならないからな。次の戦が不利になる」
「俺様一人が討たれたからって、武田は動かないよ」
「さあ、そうかも知れないが、けれど武田とは必ず決着を付けなくてはならない時が来る。其の時、真田幸村と真田隊は、目を血走らせて向かって来るだろうな」
 六文銭を掲げた、武田随一の突破力を誇る槍の様な赤い部隊が、咆哮を上げる赤獅子に続いて己が身など顧みずに。
「お前が居なくとも、真田隊には霧隠が居るだろう。忍隊も健在となれば、少々、厄介だ」
「俺なんか居なくたって構わないって感じだねえ、其れ」
 ちらりと顧みれば、多くの部下を従える癖にやたらと自ら動きたがる忙しない忍びは、またぶらぶらと、今度は左右交互に足を揺らして居る。かすがはふんと鼻を鳴らした。
「忍頭が何を巫山戯ているんだ」
「別に、巫山戯ちゃないけどさ」
「本気で判らないのなら、そんな長に付き従わねばならない者達が報われない」
 やれやれと溜息を吐いて、降参、とでも言う様に、佐助は軽く片手を上げた。
「はいはい、判ってますって。悪かったよ。騒ぎになる前に、もう帰るから」
 よいしょっと、と危うげなく枝の上に立ち、佐助は軽く首を傾げて笑った。
「有難な、かすが」
「少し暇だったから、相手をしてやっただけだ。勘違いするな」
「あらら、やっぱり冷たい」
 じゃあまあ帰りますか、と、とん、と枝を蹴り、遙か向こうの枝に飛び移った佐助は、ちらりと肩越しに手を振った。
「気を付けて帰れよ!」
 人の心配をして居る場合か、と返そうとした時にはもう一度跳躍を済ませた背中が豆粒の様に遠離り、かすがは全く、と軽く眉根を寄せて、北を見詰める。春日山の城に御座す、彼の神々しい人を脳裏に思う。
 
「───そんなに恋しいのなら、躊躇わずに手の内に有れば良いものを」
 
 彼のお方と違い、赤獅子はたかが男では無いか、と呟いて、かすがはかすがの光へと向かい、高く高く跳躍した。

 
 
 
 
 
 
 
20070129