02 隙間から、手

 
 
 
 
 
 

 少量浴びた返り血が、それでも酷く腥く鼻腔を刺激する。けれどかすがはつるぎなのだから、その滑らかな刀身を汚す血など清流のせせらぎで洗い流せてしまうのだ。
 今だけ、今だけ我慢。直ぐに洗い流して彼の方のつるぎとしてお傍に戻る。
 けれど進む足はぎくぎくと強張って、上手く歩んではくれない。今まで幾多の命を屠って来た、それと変わらない。たったひとつの命を、余計に、屠っただけだ。
 それは上杉の敵ではなかった。
 彼の方の敵ではなかった。
 かすがはいつもの通りに上手くやったし、きっと彼の方も褒めて下さる。けれどたったひとつ、誤算が。
 今夜暗殺に忍び込んだ廃屋には彼の方に逆らおうと決起した裏切り者がいるばかりで下女の一人もいない筈だったのに、賄いか、戦いを前にして滾る血を収めるための畜生のような下劣な理由か、何れにしてもまだ少女と呼べる女が一人、いたのだ。
 裏切り者の息の根を止めて、血判状を蝋燭で燃して、さあ首尾は上々、と身を翻した所でその、板戸の隙間に掛けられた、白い手を見た。
 がた、と音を立てて立て付けの悪い戸を開いた娘は惨劇には気付いていなかった。当然だった。かすがの仕事は月光よりも気配がない。
 膝を落としがたがたと戸を開けた娘が顔を上げる前に、かすがは苦無を放っていた。驚愕にも足りない、ほんの僅かぱちりと目を見開いた表情で、娘は敢え無く事切れた。
 
 かすがはとても目立つ風貌をしていた。だから戦忍にしかなれなくて、同郷の赤髪の男などはお前は堪え性がなくて負けん気も強い、忍ぶには向いていないのだし、その貌だ、戦に行くしかないだろうと色を見せない困ったような微笑で言った。
 自分だって赤狗のような頭をしていて忍ぶには向いていなかった癖に、知ったような口を利かれて酷く憤慨した覚えがあるが、戦忍など、と反発仕掛けたかすがの口をしいと押さえて、意地を張るなよ、色忍になんかなりたくないだろう俺だってお前をそんなものにさせたくないと笑みのない顔で言ったので、そのときばかり、かすがは黙った。
 あの男の表情の無い顔を、かすがが見たのはその一度きりだ。あれがあいつの素の顔なのかと思ってしまったせいかかすがが思い出すあの男の顔は、何年経ってもあのときの、まだ幼ない、細い、痩せた、ちっぽけで見窄らしい無表情だ。
 
 纏まらず散り散りに逃げていってしまう思考にかすがは唇を噛んだ。違う。そうではない。あの男のことなどどうでもいい。
 ただ、かすがはとても目立つ風貌をしていて、この上杉の領内に住む者ならば月光色の髪を見ただけで戦神の忍びであることが明白であると、そういうことなのだ。
 上杉謙信が上杉の家臣を誅殺したなど、嗚呼、そんなことはあってはならない。
 彼れらは飽く迄、何者か、恐らくは敵国の忍びに殺されたのだと、そうしておかなくてはならない。上杉内に彼の方に逆らう者がいるのだと、そんな話を他国へ洩らすわけにはいかない。
 どんな小さな口も封じる。男は自らの立身の為にその口を使うが、女子供は考えもなしに飢えた雛の如くぴいちくぱあちくと口を開く。
 かすがにしてみれば、どちらにしても忌まわしいことだ。
 あの赤髪の男も酷くよく動く口を持っていたけれど、その滑らかな舌は洩らすべきことをよくよく弁えていた。多弁であることで沈黙を通していた。そう言う技術を、いつの間にか、誰から仕込まれたものか身に付けていた男だった。かすがとそう年は違わない筈なのに、里にいた頃はかすがよりも一段も二段も早く一人前になって、そうして颯爽と外の世界へと出て行った。
 
 また思考が散り散りに飛んでいる。
 ぐらぐらと目が回りそうだった。
 
 ようよう屋敷へと帰り着いて、報告へ赴く前に血の付いた装束を改めなくてはとかすがは忍隊の庵へと向かった。夜回りの者が出入りしているかと思ったが、思えばまだ交代の時刻ではない。誰もいなかった。
 滑り込み、窓の格子の隙間から入る月光を光源に装束を探り当て、てきぱきと着替える。手は廃屋の手水鉢で軽く浄め拭って来ていた。
 血の臭いのするものが躯から離れ、かすがははあとひとつ息を吐いた。
 戦場を駆けずり回る血に飢えた獣のような男どもの腥い血と、誰の血にも汚れたことのない無垢な娘の血が同じ臭いだったことに、かすがは愕然としていた。なんとも、ひとというものは、不平等なものだった。あんな汚れた男どもと、ただ居合わせてしまったためにつるぎに殺された娘の躯に、同じものが流れているというのだ。
 
 ぶる、と頭を振り、迷いを払う。必要なことだった。男どものように血に飢え血に酔い、ただ悪戯に太刀を振り回したわけではなかった。
 気を取り直してふと月光の落ちる窓へと目を遣る。別に見る必要はなかった。何故だか視線が吸い寄せられただけだった。
 
 半分、窓に掛かり格子の形も真っ黒な影に呑ませた雨戸の隙間に、月光にも負けないほどに、白い、白い、手が、輪郭を銀色に光らせて、
 
 己の喉笛が引き攣り奇妙に鳴ったのを馬鹿のようだと思いながら、かすがはそれでも忍びらしい疾さと静けさで、庵を飛び出し彼の方の待つ屋敷へと跳んだ。

 
 
 
 
 
 
 
20061124