「さっ、佐助え!!」
 どたばたと喧しく駆けて来る足音に、慌てふためいた声が加わった。
 と思えばずざあっと廊下を滑り込んで行き過ぎた主を開け放した障子の向こうに見ながら、佐助は丁寧に伸ばしていた晒しを畳んだ。
「佐助!!」
「はいはい、どうしたんです」
 だだん、と板間を踏んで戻った主が勢い込んで佐助の前へと膝を突く。勢い込み過ぎてまた滑り額を突き合わせんばかりに顔を覗かれ、佐助は幾らか顔を逸らした。しかし逸らした分だけ身を乗り出した幸村は、がっしと佐助の肩を掴む。
「お、お、お、お、」
「………お館様?」
「お前を!」
「俺?」
 幸村はぶわ、と髪を逆立てんばかりに沸騰し、ぱくぱくと派手に言い淀んだ。
「ちょっと、落ち着いて」
「お前を!!」
「何よ」
「よっ……嫁に貰えばッ、良いと!! 言われてしまったッ!!」
 途端両手で頭を抱えて仰け反りぬおおおお、と悶絶した幸村に、佐助ははあ、と気のない返事をした。幸村はふいにがばりと姿勢を戻し、それからぐっと声を落として真摯に佐助を見詰めた。
「ばれておったぞ。───どうすれば良いのだ、佐助」
 どうすればったって、と内心で呟きながら、佐助は巻き直そうとしていた晒しを示し、裸の肩を竦めた。
「………とりあえず、着物着させて下さい。寒いんで」
 
 
 
 
 大体ばれない訳はないのだ。
 無論公言などする筈もないが、佐助を閨へと呼んだ日の幸村は夕方からそわそわと落ち着きなく、今宵は護衛は要らぬと人払いをする。何故かと問われれば佐助が居るから構わぬと答える。
 無論佐助が居れば他に護衛が居なくとも、上田城の中心も中心、城代の私室にまで忍び込める者がそう大勢いるでもなし、確かに構わぬものであろう。そもそも、幸村自身が一騎当千の兵である。焦臭い時期であるならともかく、特に戦も調略も仕掛けられていない時であるなら、そうですかとそれ以上問わずに家人は下がる。
 だが、佐助はいつだって居るのである。任務で留守にしている時は兎も角、そうでなければ働き者の忍び長は他の護衛と共に毎晩幸村の護衛に当たっている。
 だと言うのにその日に限って佐助だけを残して人払いをし、しかも穏やかとは言い難い己の行為を気にしているのか、そうして二人夜を過ごした翌日には、幸村は必ず暇をくれるのだ。
 それさえなければ二人酒でも酌み交わしながら、内密の話でもしているのだと誤魔化す事は出来はしただろう。佐助に対して気易い主は、他の家臣には到底言えぬような悩みや望みも、友と悪巧みをするかのように話して聞かせる。そういった、家臣には気恥ずかしくて洩らせぬような、家臣からすれば微笑ましい理由であるのだと、そう言い訳する事も出来ただろう。
 が、気易く友のように夜通し話し込んだからと言って、主が朝も早くから勤勉に槍を振っていると言うのに、酌と聞き役をしただけの忍びがのんびり朝寝坊というのもない話だ。佐助の非番を見計らって呼ぶならまだいいが、忍隊の事は佐助へと一任している幸村は、忍びの非番など知らない。
 そもそも佐助にはそうそう非番と言うものはない。よしんば非番だとして、部下達が佐助に一度も何も訊きに来ぬと言う事はないから、佐助は大概城へと詰めている。
 となれば、あれは閨のお世話であるのだなあ、小姓でもないのに佐助殿も大変だ、忍びの技は下の方まで及ぶのか、いやいやしかしくのいちなら兎も角、どれだけ具合が良くとも忍びなど拙者は勘弁願いたい、幸村殿も酔狂な事よ──と、そういった話になるのは当然の事である。
 主が苦笑混じりにからかいの種にされているとはいえ、その程度の噂話は親愛の範疇だ。よって佐助の小耳に挟まれぬ城内の噂などないが、知らぬふりで大して気にすることもなく聞き流していた。
 無論下の者等の井戸端会議など幸村の耳にまで入っているわけはなかったが、それでもまさか、主が隠し通せている気持ちでいたとは今この時まで、流石の猿飛佐助も思いもよらなかった事実である。
「よ、嫁御を取らぬのか、と言う話になったのだ」
 顔中にでかでかと『恥』と書いた茹で蛸の主は、ぼそぼそと経緯を話し出した。
「そうでなくとも、そろそろ色遊びの一つも覚えておらねばお館様もお気になされようと……」
「はあ、そうね。そんで、色里にでも誘われたの?」
「な……! は、は、破廉恥だぞ、佐助ぇ!!」
「誘われなかったのね」
 まあ、誘っただけで破廉恥で御座ると叫び出すような連れが居ては、女も近寄っては来るまいと佐助は小さく溜息を吐いた。郭の女は金で縛られる身ではあるが、それでもちゃっかり客は選ぶ。初な若侍なら落とし甲斐があるとしても、幸村ほど女を忌避する相手は、客にならぬ、白けてしまうと相手にされぬだろう。
「そ、それで、その、某は未だ、その様な事は考えられませぬと」
 またまた、ご謙遜を、と笑った相手は、噂は聞いておりますぞ、と楽しげに幸村の肩を突いたと言う。
「そ、そ、そんなに佐助殿が恋しく操を立てたいのなら、よ……嫁に貰ってしまえば良いと……!!」
「いやあ……」
 忍びだからってそこまで何でもありって訳でも、と呟いて、佐助はもさもさとした髪に指を突っ込み頭を掻いた。幸村はがば、と顔を上げる。
「ど、ど、どうしたら良いのだ、佐助!! ばれてしまったぞ!!」
「はあ……どうしようね………」
 まさかばれてないつもりだったなんてなあ、嗚呼でもちょっと安心した、と佐助は内心で胸を撫で下ろした。
 武家の者であるならともかく、佐助相手では衆道は衆道でも単なる男色だ。道理など何処にもない。外から見れば、ただの物好きである。
 幸村殿は少々女を敬遠し過ぎではないか、女に興味がないのではないのか、とそのような懸念をされていても不思議はないが、今の所未だ問題はなさそうだ。幸村の年が若いせいもあるだろうから、後二、三年の間にはどうにかせねば不名誉な噂も出ては来ようが、それまでにはなんとか出来そうだと佐助は思う。
 何しろ、忍びとの男色を、主が恥であると感じていたなら幸いだった。
 心も無いのに誰かを閨に呼び付ける事が出来る相手ではない。多分に信頼と混同されていそうだとは言え、想いを向けて貰える事は身に余る光栄であるのだ、嬉しくない訳はない。何より佐助は此の主を、恐らく幸村自身が感じるよりも余程深く慕っている。
 だが、心に偽りがないからと言って、矜持が曲がるかと言えば曲がらぬものであろう。前田の風来坊あたりならばそれは偽りであると憤慨しそうだが、感情のままに振る舞う我が儘な女でもあるまいし、立場のある男にとってはそれは当然の事だ。
 佐助の事は恋しい。だが、忍びとの色恋が洩れては恥になる。
「旦那は結構大人だったんだねえ」
 俺様安心したよ、と心底安堵して述べれば、未だ頭を抱えて大声で呻いていた幸村が、怪訝な顔をした。
「何故そう言う話になるのだ! おれは! 相談をしているのだぞ!!」
 おれとお前の事であろうが、とぶんぶんと両腕を振る幸村をどうどうと宥めて、佐助はまあ大丈夫ですよと笑った。
「どうせばれてたんだしさあ」
「ななななな、何ィ!?」
「ばれないわけねえだろ? つうか、俺様にしてみりゃ、旦那がばれてないつもりだったって方が驚きなんですけど」
「おおおお、お前ッ、ばらしたのか!?」
「吹聴なんかしませんよ。けど、あんな呼び付け方して、ばれないわけがねえだろって」
 だから翌日の休みなんかいらないと再三言ったのに、と肩を竦めると、幸村は床へと撃沈した。普段から騒がしい主だが、今日は盛り上がったり落ち込んだりと忙しい。
「ば、ば、ばれておった……とは………!」
「まあ、みんな気にしちゃいねえから」
「お、お館様も!! ご存知なのであろうか!!」
「さあ、甲斐まで話いってるかは判んねえけど、噂は足が早いしねえ。大将のこったから、知ってんじゃねえかなとは思うけどね」
「なんと……!」
 幸村は絶望的に嘆き、天井を仰いだ。
「ならば、お前を娶るしかないではないか……!」
「いやいや、何でそうなんのよ」
「佐助! おれは姑息な男であった!!」
 ぐり、と顔を戻して真摯な眼差しで真っ直ぐに佐助を見詰め、幸村はぎゅうと眉間に難しげに皺を刻んだ。
「お前を戦に連れて往きたいが為に、後ろめたく思いながらも今まで隠しておったのだ……」
 お前にも肩身の狭い思いをさせた、と唇を噛む主の深刻な雰囲気に付いて行き損ね、佐助は上げ掛けた手をわきわきと動かした。
「あれ、ねえ、どうしたの急に。そんな深刻な話してたっけ?」
「背を預けられるのはお前しかおらぬ……! しかしそれだけではないぞ、佐助! お前と出る戦は、おれには楽しみであったのだ! お前は自慢の忍びゆえ」
「有難いお言葉ですけど」
「お館様も、お前ほどの忍びはおらぬとお褒め下さっておった」
「嬉しいんだけどね、あの、」
「だが、安心致せ、佐助! こうなってはおれも男、腹を括るぞ!!」
「いや勝手に括らないでくれる。旦那の中で何が決定したのか俺様には全然判んねえんだけど」
「お館様にはおれから詫びる! お前は安心して、家内を守る事に専念せよ!」
 突っ込みも忘れ、ぽか、と目も口も開けて幸村を凝視して、あれ、いつの間にか俺様嫁になってんの、と呆けていた佐助は無駄に誠実な顔をしている主が立ち上げるのに、はっと我に返った。
「ちょ、ちょっと待って旦那!」
「うお!?」
 がっしと足へと組み付くと大股で部屋を出て行き掛けていた幸村が転倒した。がば、と上げた顔の額と鼻が赤い。
「痛いぞ、佐助!!」
「何処行くんだよ! おかしなこと吹聴する気じゃねえだろうな!?」
「おかしなとは何だ! 話の途中で駆けて来てしまったのだ! 佐助は既に某の妻であると、きちんと申して来ねば!!」
「それがおかしいって言ってんの!! からかわれただけだろ!? んなこと言ってみろ、主だからってただじゃおかねえからな!!」
「お、お前、謀反の宣言か!? 即日離縁とはどういう了見だ!!」
「だから結婚してないですから!」
 大体妻は謀反しねえよ! と叫び、上半身を起こしてじたばたと足掻く幸村の袴を掴んだまま、佐助は身を起こした。
「それに、なんで俺様がお家にいなきゃないのよ。俺様は戦忍ですよ、旦那。戦に出るのが仕事なの」
「だが、夫婦で戦場へ出る訳にはいくまい!」
 破廉恥である、と大真面目に言った幸村に、佐助は胡乱げな目を向けた。
「まあた旦那の破廉恥が始まったよ。まさか、そのために内緒にしてたなんてんじゃあないでしょうね」
「そうだが」
 きょとんとした顔で即答した幸村に、こいつは馬鹿なんだろうか、と佐助は主である事を横に置いて胸中で心底罵倒した。
「…………まあ、兎に角。その夫婦ってのの括りには、旦那と俺は入りませんから」
「何故だ」
「夫婦じゃないし、なれもしないでしょ。俺様は男なんですからね」
「だが、佐助は忍びの中の忍びであろう。ならば嫁にでもなれよう!」
「だからあ、」
「皆もそう申しておったぞ!!」
 皆って誰よ、と無言で突っ込んで、それから嗚呼嫁に貰ったらどうですかって言って来た連中ね、と佐助は己で答えた。
 そうだ此処は武田なんだった。
 みんな馬鹿か、と遠い目をした佐助に、幸村がふと気遣いげな顔をした。
「どうした、佐助。気分でも悪いか?」
「ちょっと気が遠くなりそう」
「何、それはいかん! 床を延べさせよう」
「いや、じゃなくって、戦に出なくていいなんて事になるんなら、俺様里に帰るけど」
 幸村は唐突にしんと押し黙った。言葉を無くした、と言うよりも意味が判らなかった、と言った様子の主に、佐助は溜息を吐いて手を離し、座り直して床に両手を揃え頭を下げた。
「ただ飯食らいなんてな、忍びの矜持が許さねえ。長らくお世話になりましたけど、旦那が阿呆な事言い続けるんなら、此処でお暇させていただきます」
「あ、阿呆とはなんだ………」
「妻代わりだろうが小姓代わりだろうが、関係ねえ連中にどう思われても構わねえけど、旦那にとっての俺様が忍びでないってんなら、俺にとっちゃ此処に居る意味ってのがねえの」
「………おれは、お前にとって単なる雇い主なのか」
「そうだよ」
 ぐ、と唇を結んだ幸村に眉尻を下げて小さく笑い、佐助は肩を竦めた。
「金だけで雇われてるわけじゃあ、ねえけどね」
 だからどれだけ金を積まれようが、戦場を離れる訳にはいかない。
「武田の、あんたの戦に共に往くことが俺の望みだよ。簡単だろ、俺は戦忍なんだ。そのまま使ってくれればいい。だけどその望みを満たせないってんなら、残念だけど、あんたは俺の価値を見限ったって事だからね。お暇するよ」
 なんだ、矜持を曲げられぬのは己のほうではないかと考えて、佐助は少しばかり愉快になった。
 幸村はこんな下らぬ理由で佐助を手放す事はない。気持ちの問題ばかりではない。幸村の信じる佐助が、忍びの中の忍びであるからだ。
 少々舞い上がって馬鹿な事を言い出した主だが、妻だと吹聴したとしても戦となればそんなことはなかったかのように往くぞ佐助、と名を呼ぶに違いない。城へ置いてゆくのだと言い触らされてそれはどうかと苦笑する武田家臣達も、置いていかれる筈の佐助が戦場を駆ける様に、一つも疑問に思うことはないだろう。
 何しろ武田だ。甲斐の虎と、虎の若子の率いる赤い波だ。
 だが、それを知っていてなお、佐助はほんの一時たりとも幸村の忍びであることを放棄せねばならぬ事態に陥ることを、嫌悪した。
 薄く嗤う佐助の笑みの質が僅かに変わったことに目敏く気付いたのだろう。幸村は表情を改めて、胡座を掻き直した。姿勢の良い姿が開け放した廊下からの光を浴びて、やたらと凛々しく映る。黙っていれば、見目の良い男だ。
 さて、どんな言葉で此の芯から忍びの己を口説いてくれるのだろうと、佐助はその唇が開くのをじっと待った。次の言葉次第では暫くの間、本当に里に帰ってしまってもいい。何しろ、主の心無い発言に己は相当に傷付いたのだ。
 
 幸村が低く大人びた声で、佐助、と呼んだ。

 
 
 
 
 
 
 
200801120

いつでもお花の季節