本文サンプル>>> うさぎのりんご
 
「沖田さん、今大丈夫ですか?」
 とすとすとす、とこの屯所の誰よりも軽い足音を響かせて障子の向こうで止まった気配が声を掛けた。総司はちら、と眉を顰め、身を起こしながらまだ閉じられている障子を見る。縁側の向こうの光に浮かぶ影は、いつもの小柄な少女のものだ。
「千鶴ちゃん? 起きてるけど、君、なんだか声が……」
「失礼します」
 すら、と開いた障子から覗いた姿に、総司はぽかんと目を丸くした。僕がこんな風に目も口も開けっぱなしの間抜けな顔をするなんて珍しい、と自分で冷静につっこみながら、慌てて完全に躯を起こす。
「千鶴ちゃん、どうしたの」
 余程驚いた顔をしてしまったのか、千鶴は気後れしたように首を竦めた。ただでさえ潤んだ瞳がくしゃりとなって、まるで泣き出しそうにも見える。
 とはいえ、まるで色気のある状況ではない。
「あの、実は風邪を引いてしまって」
「………見れば判るけど」
 着せられたのだろう丈の合わない羽織と半纏でもこもこに着ぶくれ、鼻と口は手ぬぐいで二重に覆われている。いつもの高く揺った髪だけはそのままで、覗いた目元とおでこが真っ赤だ。手ぬぐいで息苦しいせいもあるのだろう。どれだけ埃だらけの場所を掃除するにしたって、こんな重装備はいらない。
「沖田さんに、伝染してしまったら大変なので」
「そんな今更……ていうか、だったら寝てなよ。どうしてこんなとこにいるのさ」
「沖田さん、昨夜も熱があったでしょう? 汗を掻いたと思って」
「今は下がってます」
「汗を拭いて着替えなきゃ、気持ち悪いでしょう」
「そんなの自分で出来るから……」
 駄目です、と自分こそまったく駄目なくせにぴしゃりと言って、千鶴は抱えていた湯の入った桶と手ぬぐい二枚を枕元へと置いた。その横には、昨夜のうちに準備していたのだろう、洗い立ての寝間着がある。
 近くに来ると、ぜいぜいと軽く喉を鳴らしている音が聞こえた。総司は眉を顰める。
「ちょっと、千鶴ちゃん──」
「ッあー! いた! 左之さん千鶴いたよ!」
 こんなところに、とどたばたとやって来た平助が騒ぎ、顔を上げた千鶴の腕をがっしと掴んで捕獲した。
「へ、平助くん、わたし、お仕事が」
「駄目だってそんな熱高いのに!! 寝てろっつっただろー!! 家事なら俺たちでやるから!」
「そ、そんな、ご迷惑は」
「元々俺らの仕事なんだっつーの!」
「だけど」
 言い差して、ふいにけほけほと咳き込んだ千鶴は総司から躯ごと顔を背けて背を丸めた。ああほら、と平助がその背を擦る。
「部屋戻れって、な? 総司の世話なら、誰かちゃんとやるし」
 ようやく咳の治まった千鶴を抱き起こし、でも、と総司を気にする潤んだ目に頷いて見せて、平助は顧みた。
「ごめんな総司、ちょっと待っててくれよな」
「いいから、早くその子連れて行きなよ。僕は今更だけど、体力落ちてる時に僕の側になんか来させないで」
 やや鋭く尖った口調になってしまったせいか、千鶴がびくりと身を竦めて眉尻を下げた情けない顔でびくびくと総司を窺った。
 怯えられる謂われはないが、ここでごねられても面倒だ、と総司は不機嫌な顔を緩ませずに溜息を吐いて片手を振った。
「ほら、さっさと部屋に戻って大人しくしてなよ」
「でも……」
「それとも何、その可愛くない顔まださらしてたいの? 君、男装が長過ぎて女の子としての恥じらいもなくなっちゃったんじゃない?」
 うぐ、と覿面に詰まりそれはわたしは美人じゃないですけど、とかなんとかもごもごと手拭いの奥で言いながら今度こそ熱のせいではなく本当に涙目になった千鶴に、あああもう、と頭を抱えた平助が総司を睨んだ。
「総司もそんな言い方ないだろ!」
「だって可愛くないじゃない。真っ赤だし、むくんでるし」
「熱高いんだからしょーがないだろ! 千鶴も! お前が可愛くないなんてこと、全然ないからな!」
 どさくさに口説くようなことを言って、ぽかんと目を丸くした千鶴を支え平助は視線の意味になど気付かぬようでそのまま立ち上がった。千鶴が慌てる。
「あの、あの、平助くん! 沖田さん熱下がらなくて土方さんにお風呂禁止されてたから、ちゃんとね、汗拭いてあげて、それから着替えと、あとね……」
「判ってるって! お前昨日頑張ってたもんな! ちゃんとするから!」
 それからね、とまだ何か言っている千鶴をぐいぐいと押し出すように連れ出した平助と入れ替わるように、嫌になるほど馴染みのある足音がやって来た。
 少し先の廊下で出くわしたらしい年少組と何事か言葉を交わしたその人物は、特に急ぐでもなく真っ直ぐこちらへやってくる。
 総司は顔を顰めて彼が顔を覗かせるのを待った。