本文サンプル>>> みづく
 
 ざああ、と贅沢なほど張られた湯を両手に掬って落とし、佐助はふー、と満足げな溜息を吐いた。隅に二箇所だけ灯りを置いた湯殿は薄暗く、けれど格子窓から差し込む月の光が明るい。
 しましまに伸びる四角い月明かりをゆらゆらと壊し、佐助は湯船の縁へと腕を掛ける。ぬるい湯だが、今日は随分と暑かった。疾うに深夜の今になってもまだ涼しいとは言い難い。となれば、湯はぬるいほうが有り難い。
 武田の風呂は熱過ぎるんだよなあ、と考えながら口の端で笑って、川に行かずにまっすぐ戻って良かった、とこきりと首を鳴らす。温く冷めた湯でも、まだ風呂に残っているとは運が良かった。いつもであれば疾うに流され掃除されていたはずだ。
 誰か風呂が遅かったのかな、と考えながら再びざあ、と湯を掬い落とし、佐助はふ、と動きを止めて耳を澄ませた。だんだんだん、と踏み締めるような足音が、脱衣所の前で止まるや否やがらり、と板戸を開ける。
 足音はどしどしと半ばまで進み、それからふと、窺うように動きが止まった。
「すまねえ、旦那。俺様だよ。佐助です」
 誰か居るのか、と誰何の前に馴染みの足音の主へと素早く言葉を滑り込ませ、佐助は湯船の縁へと乗せた腕の上へ顎を付けた。ざぶ、と泳ぐように足を蹴る。
「旦那も風呂まだだった? 悪いね、頂いてましたよ」
「いや、汗みずくで目が覚めたから湯が残っているなら流そうと思っただけだ」
「丁度いいや。大分ぬるいから気持ちいいと思うよ。今上がりますんで」
「構わぬ。ゆっくりしろ」
「あ、そう?」
 出直させるのも申し訳ないけど、と考えながらも心地よさに離れがたく、佐助は脱力しぷかり、と浮力に任せて浮いたまま目を閉じた。ちゃぷちゃぷと腕に掛かる湯が跳ねて頬を濡らす。
 そういえば戦化粧を落としてなかったな、と手で拭い、溶け出していた染料の付いた手を流した佐助は、ふいにがらり、と板戸の開いた入り口へと目を向けた。
「わー……入って来ちゃうのね」
「別に構うまい」
 何かまずいか、とまるで頓着しない顔でのしのしとやって来た主は手拭いの一枚も持っていない。当然裸体だ。ぬるい湯では大して湯気も立たず、忍びの目にはふたつの小さな灯りと月明かりは充分過ぎるほどの光度だ。
 男の素っ裸隅々まで眺めても楽しくねえや、と顔を背けて頬の染料を擦る佐助の思案などどこ吹く風で、幸村はざぶり、と大の男が二、三人浸かったところで悠々と出来るだけの湯船に足を入れた。
「ぬるいな」
「だからぬるいって。つか、こんな時間だもの」
「沸かし直すか?」
 佐助はぎゃっと飛び上がり思わず幸村から距離を取った。
「やめてよ俺様は丁度いいっての! 旦那が沸かし直したら熱湯になっちまうだろ!」
「軟弱だな」
 ふん、と鼻を鳴らしてどことなく勝ち誇ったような笑みを浮かべ、幸村は縁に腕を乗せて胸を反らすように首を倒した。格子の向こうの月を眺める顔に、四角い影が落ちている。
「おお、いい月だな」
「まーね。お仕事しにくいったら」
「なんだ、佐助。お前ほどの忍びでも月夜では忍びにくいものか」
「警備が薄かったりもするから、逆に動きやすくもあるんですけどね」
「そういうものか」
 言いながら伸びてきた手の無骨な親指が、ぐい、と頬を拭う。ざらざらと荒れた固い皮に遠慮無く擦られ佐助は眉を顰めた。
「痛いって」
「拭ってやったのだろうが。ここにも残っているぞ」
「う、」
 顎を掴んだ幸村に鼻筋を拭われ、佐助はその手首を叩いた。
「痛い痛い! 加減して! 鼻折れちまう」
「軟弱なことを申すな。この程度では折れぬ」
 大体鼻など折れてもすぐ治る、と物騒なことを言う幸村にざぶ、と肩を竦めてついと距離を取り、佐助はぱしゃぱしゃと顔を洗った。
「……んじゃ、俺様もう上がろうかなー、なんて」
「うむ。おれも直ぐ行く」
「へ?」
 幸村はまるで他意のない顔で笑った。